以前、ある人から面白い話を聞いた。なぜ動物園の猿山にイノシシが一緒に飼われているのか、という理由である。
サル社会は人間社会と同じく、ボス猿を頂点に厳然たるヒエラルキーを形成している。当然、最下層のサルは目上のサルに支配され、様々な形で圧力をかけられる。これが野山に生息するサルなら、群から離れた場所でストレスも発散できるが、動物園の猿山に逃げ場は無い。狭いサル社会に閉じ込められた最下層のサルは、いずれストレスに耐えられなくなって衰弱死するそうだ。
ところが、イノシシが同居すると、最下層のサルは、イノシシの背中に乗ったり、追い回したりすることでストレスを発散することができる。イノシシには自分がサルにいじめられているという意識はなく、むしろ遊んでもらっているという感覚に近いから、お互い、群れ合って共生できるのだそうだ。
氏曰く、「君たちも職場や学校でいじめられたら、自分は猿山のイノシシと思いなさい。同じサルにいじめれていると思えば苦痛も大きいが、自分はイノシシで相手はサルだと思えば、気の持ち方も違うだろう」何所に行っても、自分より立場の弱いものをいたぶることで自分を慰めている人はたくさんいる。そうした理不尽な悪意や仕打ちに出会ったら、私は必ずこの話を思い出し、逆に我が身を差し出すようにしている。最下層のサルが自分の背中に飛び乗って、ストレス発散していると思えば、かえって相手のひ弱な自我が可哀想に思えてくるからだ。
第二の話。
『ひょうたん猿』のたとえをご存知だろうか。
東南アジアの話だったと思うが、収穫間近の農村では、畑を荒らしにくる猿を捕まえるために、コメの入ったひょうたんをあちこちにぶら下げておくそうだ。
夜になると、猿は農園にやってきて、コメの入ったひょうたんを見つけ出す。そして、ひょうたんの中に手を突っ込み、手にいっぱいのコメを掴み出そうとする。
ところが、コメを握った手が邪魔して、猿はひょうたんから手を抜くことができない。
利口な人間なら、コメは諦めて手をほどき、ひょうたんから手を抜くだろうが、強欲な猿はなんとしてもコメを掴み出そうとするので、一晩中、ひょうたんの中で手を握りしめたまま苦しむハメになる。そのうち夜が明けると、ひょうたん猿は、あっけなく百姓に捕らえられるのだ。
案外、笑えない話である。一つを断念することでいくらでも楽になれるのに、ひょうたん中のコメを握り締めたまま、ウンウン唸っている人は多い。傍から見れば、こんな無様な姿もないのだけれど、ひょうたんのコメに執着している人は、コメを掴み出すことしか頭に無く、手を放せば楽になるという解決法も、ひょうたんの周りに鈴なりに生っている果実にも、まるで気付かないのだ。
何かが思うようにならない時、あるいは望みが叶えられないと苦しい時、『ひょうたん猿』の話を思い出すといい。
もしあなたが、一つのものに執着し、手の中に握り締めることで苦しんでいるなら、思い切って手を放すことだ。確かにコメは惜しいかもしれない。
だが、ひょうたんの周りにはもっと美味しい果実が鈴なりに生っている。この苦しみは自分の執着が作り出していると思えば、案外、簡単に手を放す勇気が湧いてくるものだ。
この世の法則──それは『何かを得れば、何かを失う』ということだ。
何かを得ようと思えば、何かを手放さなければならない。
欲望で心が満杯だと、幸福は入る場所がないから、その人の前を通り過ぎることになる。
にもかかわらず、「あれも欲しい、これも欲しい」と執着し、苦しんでいる人のなんと多いことか。
人ひとりが手に出来るものなど限られているのに、「一つ得れば、また一つ」と人間の欲望には際限がない。
欲しいものが得られないと必要以上に苦しむのは、ひょうたんの中のコメを握り締め、手が抜けないともがいている猿と同じだ。
この世に『ひょうたん猿』を笑える人間など、一人としていないのではないか。
最後に。
母猿は子猿を叱る時、必ず目を見て叱るという。
だがその後、優しく抱きしめ、愛のもつ厳しさと優しさを教え込むそうだ。
愛は、甘さばかりではない。
時に、峻烈な厳しさをもって人を打つ。
都合の良いものしか与えない、求めないというのは、単なる自己愛である。
愛は人の魂にもっと多彩な紋様を描くものだ。
猿がどこから人間に進化したかは知らないが、その動物性は欲望や感情といった形で、今も人間の中に根深く残っているような気がする。
そして、人の一生は、動物として生まれたものがいかにして人間になり、完成されてゆく過程をいうのだろう。
Life is Art といわれる所以である。
初稿:2000年11月16日 メールマガジン『eclipse』より