『過ち』 ~旧石器捏造事件に思う

先日、『神の手』と称される、民間の考古学研究所員の旧石器捏造事件が発覚し、厳しく糾弾された。某氏は、「魔が差してやった。皆様に迷惑をかけて申し訳ない」と涙ながらに謝罪したが、考古学界に与えた衝撃は大きく、長年の実績や信用を揺るがしかねない大問題となっている。

もちろん、某氏の行いは糾弾されて然るべきものだし、他にも捏造した事実があるなら速やかに告白して、事実を再確認すべきだと思うが、私はむしろ『何がそこまで彼を追い詰めたか』という理由に興味が有る。

某氏にも、家族や恩人があったろう。まして名も無きアマチュア考古学ファンでもない。

にもかかわらず、あのような過ちを犯してしまった。根っからの愚か者でもあるまいし、いつか露呈することも予見できただろうに、まるで野菜泥棒のように遺跡に忍び込み、せっせと穴を掘って、捏造した石器を埋めていた姿を想像すると、非を通り越して悲哀さえ感じる。

関係者の怒りや衝撃、社会的影響を考えると、某氏にはそれ相応の償いをしてもらわねばならない所だが、それでもこの事件に、そごう問題や森内閣騒動には無い『人間らしさ』を感じるのは何故だろう。

『神の手』と呼ばれる栄光と重圧。実社会での転身と均衡。人々の期待と疑念。

某氏の置かれた立場と、否応なしに引き裂く二つの相反する力を思うと、氏が尋常ならぬ心理状態に追い込まれた事は察するに余りある。一連の報道を見ながら、人間が、人間であるが故に起こした『人間くさい事件』だなあと感じたのは、私一人ではあるまい。

まあ、一説によると、ギザの大ピラミッドの壁に描かれ、クフ王の墓所である決定的証拠となった『クフ』という象形文字も、功利を焦った発掘者による捏造という噂あるそうだから、某氏の悪事もあながち「日本考古学始まって以来」とは言い切れない部分もあるかもしれない。

とかく、この世は、「やったもの勝ち」。どんなに偉大な発見も、『二番目』では価値も下がる。

それでも『やってはならない事』は、この世に厳然と存在するのだ。
名誉、権力、地位、金銭……人間を迷わせる財力はこの世に有り余るほどあるが、それでも『信用』に勝る財は無いことを、何時も忘れてはならない。

遺跡に穴を掘りながら、某氏が何を思ったか、こればかりは本人に聞いてみないと分からないが、ほんの少しでも苦渋に満ちた瞬間が有ったなら、その痛みを原点に、もう一度、人生を生き直して欲しいものである。

人間は、いろんな過ちを犯す。その過ちを、第三者がとやかく言うのは、実に簡単だ。子供でも、泥棒を指さして、「あの人は悪い人だ」と言うことが出来る。

しかし、事の全体像を、一体どれだけの人が正しく知っているというのだろう。世間は、編集された情報の断片だけを拾い上げて、「あの人はこうだ」「この事実はこうだ」と推測の域で物を言っているに過ぎない。
怖いのは、事実より、作られた情報を鵜呑みにする世間の方だ。

仮に、皇太子妃 雅子さまが、しつこく追っかけてくるカメラマンに、「何するのよ!」と叱咤したとして、次の日の朝刊の一面に、『皇太子妃雅子さま カメラマンに暴言を吐く』と掲載されたら、事の経緯も知らずに、「堕ちた皇室」「皇族として、あるまじき行為」なんて大騒ぎするのだろうか。

新聞やニュースで流される情報は、全部、意図もって『作られている』。
そこをしっかり認識しておかないと、「躍る群集」のように操作される。

何で見たか知らないが、ちょっと報道される度に、さもその全体像を看破したかのように意見する人々を見ると、独裁者のプロパガンダに易々と乗せられて暴走した某国民と変わらないような印象がある。こういう人々は、権威ある新聞や放送局が「黒」と書き立てれば、何の疑いもなく「黒」と思い込むのだろうか。世論が右に流れれば、我も我もと右を向くのだろうか。

実状を知らない第三者には、事実を裁くより、その過程や背景にどれだけ想像力を働かせられるか、ということの方がずっと大事な気がするのだが。

昨日まで大スターだった女優を、一夜にして人間失格にするのは、報道する側ではなく、それを喜ぶ世間の方と私は思う。

そんな風潮の中で、今更のように「道徳教育」「宗教教育」などと蒸し返す人の意見を聞くのも、無節操な感じがして薄ら寒い。

私の好きな聖書の話に、『群集の裁き』のエピソードがある。ある町に、罪深い女がいて、その女を懲らしめる為に、町じゅうの人間が石つぶてを投げようとした。するとイエスが群集に向かって言った。「今まで何の過ちも犯さなかった者から石を投げなさい」群集は、一人、また一人と石を手放して、その場から去って行った。そして、とうとう女ひとりになると、イエスは女に言った。「行きなさい。あなたの罪は赦された」

キリスト教圏にあって、日本に無いものは、『赦す』という宗教的感情ではないかといつも思う。「許す」と「赦す」には大きな違いがあり、「許す」という感情は、どちらかというと「認める」に近い。(許婚、許可、許色など)

それに対し、『赦』という言葉は、刑罰を許すという意味の『赦罪』、罪を許して自由にするという意味の『赦免』など、「人間が積み重ねた負をゼロに無くす」という含みが感じられる。

私は、人間の本質は、弱く迷いやすい『ワル』だと思っているので、善行を重ねるよりは、むしろ過ちを犯さない方が難しいような気がしてならない。

もちろん、過ちにも大小があり、謝って済む程度のものもあれば、償いようのない過失もあるので、人間として生きていく以上、いかに過ちを犯さずに行くかという事に精一杯努めなければならないのだが。

それでも、過ちを犯すというのは非常に人間クサイ行為で、その過ちを赦すというのは、極めて磨き上げられた宗教的感情に思う。

怨みや憎しみからは何も生まれない。

『赦し』だけが、相手を救い、自分も救う。

もし、いつか、誰かの過ちを見たならば、『赦す』方に気持ちを切り替えてみてはどうだろう。咎めるより先に、理解する方を優先してみては。

そうすれば、自ずと、相手も自分も変わるのではないだろうか。

初稿: 2000/11/24

誰かにこっそり教えたい 👂
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