初めに《御言葉》があった。《御言葉》は神とともにいた。《御言葉》は神であった。
このかたは、初めに神とともにいた。
神はこのかたによって万物を造った。
造られたもので、このかたによらないで造られたものは何一つなかった。
このかたによらないで造られたものは何一つなかった。
このかたの内に生命があった。
この使命は人間を照らす光であった。
この光は暗闇の中で輝いている。
しかし、暗闇はこの光を理解しなかった(別訳「この光に打ち勝たなかった」)
≪中略≫
《御言葉》は人間となって、わたしたちの間に宿った。
わたしたちはこのかたの栄光を見た。
その栄光は「父(神を指す)」の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
≪中略≫
神は律法をモーシェ(モーゼ)を通して与えたが、恵みと真理とはイエス・キリストを通して実現させた。
いまだかつて、神を見た人はいない。
(父)のもとにいる独り子である神(イエス・キリスト)、このかたが神を示したのである。
神が形になって現れるとしたら、それは「言葉」に他ならないという教えです。
何故なら、人は言葉によって真理を理解し、愛を表すからです。
今も人はブログやSNSなどで「よき言葉」を探しています。
昔の人にとっても、「よき言葉」は神のように深く、優しいものだったでしょう。
人は言葉に傷つき、怒りもしますが、一方で、言葉によって救われもします。
識字率も低かった時代、誰かが聞かせてくれる「よき言葉」は、神の声を聞くように有り難かったでしょう。
今でも神なるものは言葉の中にあります。
心が疲れた時は、優しい言葉や、美しい言葉に触れるのが一番です。
※ また一つの逆説として……
言葉に神なるものが宿るからこそ
書かない
話さない
ついつい撒き散らしたくなる言葉を心の奥に封じ込めて
じっくり沈潜することが叡知の泉を開かせる・・という考え方もあります。
https://moko.onl/deep-thought
※ その真逆として・・
現代の悪魔は言葉(情報)の中に潜む……という教えです
https://moko.onl/exorcist