振り返ってみると、本気で人を嫌いになったことなどないような気がする。
どんな人間にも、『そうならざるを得ない理由』があって、それを裁く権利など、誰にもないからだ。
むしろ、そうした弱さや哀しさがあるからこそ、誰もが愛すべき存在であるといえるし、人の世が面白く、飽きないものになるのだ。
もし、神様みたいな人ばかりの世界で生きていたら、毎日、退屈で死にそうになると思う。
人が利口に生きていくには、イヤな野郎は不可欠だし、多少の悪口も必要だ。
「ああはなりたくないね」と思うような相手があるから、自分も知恵がつくのであって、人間の良い面からよりはむしろ、悪い面から学ぶことの方が多いと思う。
その人の嫌な一面を、心底から嫌うのではなく、「こうならざるを得ないのだな」と考えることによって、私たちは多くのものを知恵として授かる。
相手を許すことは、決して敗北ではなく、長期で見れば、勝ちの思想なのだ。
ゆえに、私は、面と向かって、「アホ、ボケ、カス!」と言いたいような相手でも、正月やお礼参りの時ぐらいは、神様の前で、その人たちの幸福を願ったものだ。
その人たちの知らないところで、その人たちの幸福について祈ることが、私にとっては、悪口よりも、復讐よりも、最大の戦力だったからだ。
「汝の敵のために祈れ」というのは、こういことを言うのだろう、と思う。
そうしたことがあって、今まで、心底から人を嫌うことなく生きてこられたのだけれど、周りを見渡しても、本当に誰かを嫌って生きている人など希有なような気がする。
口では、「嫌いだ」「苦手だ」「あいつがどうだ」と言ってはいるけれど、裏を返せば、ただ妬んでいるだけ、悔しいだけ、本当は仲良くなりたいのに、相手にされないから悪口を言っているだけ……だったりする。
相手を好きになったり、認めたりすることは、その人にとって「敗北」で、落とすことでしか、その人の存在を受け入れられないから、悪口を言っている。
ただ、それだけのような気がする。
誰の中にも、心底嫌いな人などあり得ない。もし、嫌に感じるとしたら、それは自分の嫌なところに似ているからだ、と、思えば、憎みきることなど出来ないだろう。
その人が気になるのは、その人のようになりたい裏返しであり、負かしたいと思うのは、自分の劣等感を自分でどうにも克服できないからで、「悪口」というのは、たまたま運悪く、そういう人間の目の前を通りすがった時に言われるものなのだ。
生きていれば、「このヤロ」と思うような相手に数限りなく遭うし、自分が会いたくなくても、向こうから会いにやってくることも少なくない。
が、「このヤロ」と憎む反面、その人が「そうならざるを得ない理由」を考えることによって、憎しみのステップを一段超えることが出来る。
憎しみは自分を汚すだけで、相手を負かすことにはならない。
自尊心が汚れれば、何よりも自分も惨めになるだけなのだ。
死ぬ前に、「あの人も、この人も、いい人だった」と思えることは、幸せなことと思う。
本当の意味で、嫌な人間というのは、自分以外にないのだから――多分。
初稿 1999年11月