人生というのは、いつ始まるのだろうか?
それは決して生まれたときではないだろう。
それでは、はじめて恋をしたときか?
書物を通して、また人間関係を通して自我にめざめたときか?
あるいは、自分nなかに棲んでいる「もう一人の自分」との友情が成立ったときか?
人生劇場という歌では、
やると決めたらどこまでやるさ
それが男の魂じゃないか
と言っている。
だが人生はしばしば、男の魂よりもっとはるかなところで汽笛をならしていたりすることもあるように思われるのは、何故だろうか?
(その続きとして)
今すべてが一変してはならぬという法は、ないではないか。
ドストエフスキー「罪と罰」
寺山修司 『いつもポケットに名言を』より
人は二度生まれる。一度目は存在する為に。二度目は生きる為に。にも書いているように、私は今でも本当の意味で自分の人生が始まった日のことをよく覚えている。
18歳の時、初めての給金を片手に、米袋を買いに行った日だ。
それまで米袋など、当たり前のように家にあったが、これからは米一粒といえど、自分で稼いで、手に入れなければならないと悟った時、得も言われぬ高揚感を覚えて、それが第二の誕生日になった。
それまでは「生きている」といっても、飼われているようなもの。
子亀みたいに親亀の背に揺られながら、人生について語っても、何の説得力もあるまい?
寺山修司の問いかけは、もっと形而上学的なものだが、それでもこの社会で一人前に生きていくとしたら、精神的、社会的自立は欠かせない。
ぬくぬくと養われている間は、本当の意味で、社会の酷さも人生の厳しさも分からぬものだ。
泥水すすって、初めて知る世間もあり、生きていくということは、実に奥深い。
奥深いからこそ、子供には第二の誕生が必要で、二度目に生まれた時には、人生はただ苦痛なものではなく、不様でも生きるに値するということが、ようやく分かってくるのである。
現代の若者にとって最大の悲劇は、寺山修司がこの世に無いことだろうね。
あの人も、この人も、味方してくれただろうに。
アーメン・・・