地獄という芸術 遠山繁年の絵本『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)

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作品の概要

蜘蛛の糸 (1918年) - 文芸誌『赤い鳥』に掲載

作者 : 芥川龍之介

あらすじ

お釈迦様が、極楽の蓮池から地獄を覗くと、カンダタという大泥棒が地獄の責め苦に悶えている様が目に入った。
カンダタも、生涯に一度だけ、善行をなしたことがあった。
小さな蜘蛛に情けをかけて、命を助けてやったのだ。
その報いとして、お釈迦様は地獄に蜘蛛の糸を垂らすが、自分だけ助かりたいカンダタが他の罪人に向かって「この蜘蛛の糸はオレのものだ。下りろ、下りろ」と叫んだ途端、ぷつりと切れてしまう。

見どころ

短編ながら、様々な示唆が詰まった珠玉の名作。
善行と悪行、人間の慈悲と利己心、因果応報など、本作から読み取れるメッセージは数多い。

本作は、青空文庫をはじめ、新潮文庫角川文庫などでも書籍化されているが、じっくり読むなら、解説付きの有料版がおすすめ。

美術も併せて堪能したいなら、遠山繁年氏が挿絵を手がけた偕成社の大型本がおすすめ。

地獄の描写も素晴らしいが、お釈迦さまの温もりのあるお顔も素晴らしいです。

蜘蛛の糸 (日本の童話名作選)
蜘蛛の糸 (日本の童話名作選)

※ Kindle版も99円でリリースされているが、デジタル端末では非常に読みにくいと思う。

青空文庫の無料版。
蜘蛛の糸 Kindle版 蜘蛛の糸 Kindle版

地獄という名の芸術

人の心には天国と地獄の両方が存在する

西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編にこんな記述がある。

天国が上の方だとすると地獄は下のイメージである。
ここに来る人々には凄まじい悪魔が待っている。
罪人には罪の内容に応じた罰があり、これが延々と繰り広げられる。
少なくとも中世の人々にとっては、このイメージは本当に恐ろしい光景だったろう。
画家たちのイメージも天国の場面では、美しいがどこか淡泊なところがあるのに、地獄ではむしろ生き生きとして、何か嬉々として心の中の情念を解き放って描いているのではないかと疑わせるものがある。細部も時にうんざりするほど緻密である。
天国よりもリアリティのある地獄。
もしかすると描く者にとっても、見る者にとっても、こちらの方が生きる現実に近かったのかも知れない。

西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編

映画でも、ハッピーエンドのファミリードラマはどれも似たような演出だが、ホラーやアクションになると、これでもか、これでもかといわんばかりに残虐な場面が登場し、よくこれだけ残酷なことを考えつくものだと感心するほどだ。

だが、それが大衆の心理なのだろう。

実際、アウシュビッツにも『立ち牢』というものがあって、今もその痕跡が残っている。(参考 : 映画『シンドラーのリスト』とオフィシエンチム戦争博物館(アウシュビッツ収容所)の記録

縦横1メートルほどのレンガ造りの狭い部屋に数人を閉じ込め、何日も休ませずに強制労働させる上、閉じ込めた囚人の足を棒で突いて、わざと痛めつけるのだ。

休ませない、眠らせない、しかも、足を激しく打ち付けると、健康な人でも数日で死に至ると言われ、残酷な刑罰の一つとされている。

立ち牢以外にも、車裂きだの、ワニによる処刑だの、よくもこれだけ残酷なことを思いつくものだ、と、唖然とするような史実が多数報告され、それだけで一冊の書物になるほど。

社会全体を幸福にする手立てについては、お粗末なほどのに、まったく人間というのは、どこまで愚かで身勝手なのかと嘆息させられる。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にも、次のような長男ドミートリイの言葉があるが、

いや、人間の心は広いよ、あまりに広すぎるくらいだよ。
理性には汚辱と映ることが、心には美そのものと思える。
美はソドムの中にあるんだろうか?

どうにもたまらないのは、美が恐ろしいものであるばかりか、神秘なものでもあることなんだ。
ここでは悪魔と神が戦っている。
で、その戦場は――人間の心なんだ。

江川卓・訳

どんな人間にも、天国と地獄の両面が存在する。

そして、多くの人は、理性と良識によって、地獄の面を心の奥深くに押し込めている。

それが、絵画や文学などで『地獄』のテーマを与えられると、一気に開放されて、色彩豊かな芸術作品に生まれ変わるのではないだろうか。

いわば、心の奥底に秘めていた恨み、怒り、グロテスクな願望や弑虐性といったものだ。

私も学生時代、カウンセラー講座に通ったことがあるが、潜在意識に関する講義で、「有名な悪役俳優が、悪役を止めた途端、ノイローゼになった事例がある。舞台や映画で悪役を演じることで、その人は心の均衡を保っていたのだろう」と。

漫画家でも、エロ&バイオレンスを得意とする人に限って、えらく控えめだったり、絵柄とは正反対の上品な紳士だったりするが、それも創作で発散するから、社会的には上品でいられる部分もあると思う。

見方を変えれば、あの上品な見た目の奥底に、どろどろしたエロ&バイオレンスの欲望が渦巻いているのかと思うと、それも震撼とするが。代表例は、『バイオレンス・ジャック』や『デビルマン』でお馴染みの永井豪先生。(だから悪人という意味ではない)。

遠山繁年の描く地獄 ~虚無と憐れみ

遠山繁年氏が挿絵を手がけた『蜘蛛の糸』では、紙面いっぱいに地獄の様相が描かれる。

地の底からほむら立つような色彩。

どこか愛らしい鬼たちの造形。

喩えるなら、仏教画の地獄絵にユーモアを混ぜ込んだような作りで、そのあたりは、子供向けの大型絵本を意識してのことだろう。

一般に、「地獄を描け」と言われたら、肉が避け、血しぶきが飛び散るような断末魔の叫びを描くと思うが、遠山氏の絵には、そうした生々しい描写はなく、むしろ憐れみを感じる。

血の池でも、針山でも、罪人たちは、泣き叫ぶこともなければ、許しを請うこともなく、ただ茫然と、自らの責め苦を受け入れているように見えるからだ。

ダンテも書いていたが、この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ(神曲)

地獄にあるのは、愛や創造とは正反対の虚無であり、罪人たちも、もはや慚愧や悔恨からも見捨てられた、一個の肉塊に過ぎないように見える。

芥川龍之介 蜘蛛の糸 遠山繁年の挿絵

大戸度棒のカンダタも、もはや泣き叫ぶ力もなく、血の池で浮いたり沈んだりするだけ。

地獄に落ちて抵抗するのは、まだ希望がある証し。

人間、希望もなくせば、涙も愚痴も出てこない。

以下、芥川龍之介の描写。

何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにそのくら暗からぼんやり浮き上がっているものがあると思いますと、それは恐ろしい針の山の針が光るのでございますから、その心細さといったらございません。

その上あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞こえるものといっては、ただ罪人がつく微かな嘆息ばかりでございます。これはここへ落ちてくる程の人間は、もうさまざまな地獄の責め苦に疲れはてて、泣き声を出す力さえなくなっているのでございましょう。

ですからさすが大泥棒のカンダタもやはり血の池の血に咽びながら、まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかりおりました。

芥川龍之介 蜘蛛の糸 遠山繁年の挿絵

それと比して、お釈迦さまの美しく、たおやかなこと。

黄金色に彩られ、甘い香りが漂ってきそうだ。

芥川龍之介 蜘蛛の糸 お釈迦さま

そんなカンダタを憐れみ、お釈迦さまは一本の蜘蛛の糸を垂らすが、

こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ、下りろ

カンダタが叫んだ瞬間、蜘蛛の糸はぷっつり切れて、カンダタも真っ逆さまに地獄に落ちてしまう。

しかし、あんな細い糸に、何百人、何千人もしがみついたら、カンダタでなくても、「下りろ、下りろ!」とわめくだろう。

お釈迦さまも、いつ切れるか分からないような細い蜘蛛の糸ではなく、ナイロンザイルのように丈夫な糸を垂らして下さったらいいのに・・・と子供心に思っていたが、たとえナイロンザイルでも、カンダタは同じように叫んだのだろう。

どうやら、カンダタも、私も、極楽向きの人間ではないらしい。

天国まで、あと何マイル……。

*

ともあれ、遠野氏の絵には素晴らしい色彩と、どこか哀れな地獄の情景がある。

これほど完成度の高い大型絵本も二度と刊行されないと思うので、機会があれば、ぜひ手にとって頂きたい。

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初稿 2017年2月14日

誰かにこっそり教えたい 👂
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