作品の概要
寺山修司の『幸福論』は、昭和48年1月に刊行された文芸コラムである。
「こうすれば幸せになれますよ」という自己啓発と異なり、人間にとっての幸福、そして不幸とは何かを文学的に考察する連作で、見出しも下記のようにシンボリックなものになっている。
今時の幸福論を期待して読むと肩透かしを食うが、「あるべき」からの脱却と心の解放を求めるには、良いヒント集になるのではないだろうか。
- マッチ箱の中のロビンソン・クルーソー
- 肉体
- 演技
- 出会い
- 性
- 偶然
- 歴史
- おさらばの周辺部
あまたの幸福論とは大きく異なるので、人によっては難しく感じるかもしれないが、普段、自分が「当たり前」と思っている幸福を、ちょっと斜め後ろから見直してみるのに最適。
果たして世間の言うことが全て正しいのか、常識は本当に人を幸せにするのか、世界の裏表を教えてくれる一冊。
自分の不幸も表現せよ ~佐藤忠男氏の解説より
当方がコメントするより、巻末に収録された評論家・佐藤忠男氏の解説が全てを物語っているので、まずは下記の文章を参考にされたい。
所々、省略しています。
この劇団は、はじめ、小人とか、百貫デブとか、我こそは美少年美少女だと思っている若者たちとかをあつめて、昔の見せ物小屋の味のする芝居をつくろうではないか、というねらいで、われと思わん連中をあつめて出発したものだった。
一般に、障害者を舞台に上がらせて見せ物にするといったことは、人道にもとることとされている。しかし、では、障害者に対して見て見ぬフリをする者は人道的なのか、といえば、じつは、彼は、見ぬフリをしたまま差別しているだけであるかもしれないのである。
寺山修司は、これに対して、障害者と美男美女とが、平等にお芝居の中で交歓する、という発想を提出するのである。
障害者にとっての不幸は、ジロジロ見られることにあるのではなく、その視線が見て見ぬフリするようなヨソヨソしいものばかりで、真に愛情のこもったものでない、というところにあるのかもしれない。
そして、ほんとうは、一般の人々も、障害者に対してなんとか親愛の視線を投げかけたいと思っているにもかかわらず、障害者をジロジロ見るのは失礼である、というような約束ごとに縛られて、そうすることもできず、困っているのかもしれないのである。
障害者を舞台に立たせるというのは、そうした壁を予想外の仕方で打ち破る卓抜な着想であった、と私は思う。その壁を破ってみれば、障害者と健常者とは、じつは、なんのこだわりもなく、ニコニコ笑い合うことが可能だったのである。私は、こういうことを、見世物的な行為、芸術的な行為であると同時に、すぐれた思想的な行為だと思うのである。
障害者による見世物的演劇というのは極端な例であり、繰り返しやってうまくゆくということは難しい。じじつ、そうはつづかなかったようである。しかし、世の中には、さまざまな形で差別され、疎外されている人間がいる。オカマ、ホモ、娼婦、ソープ嬢、彼ら、あるいは彼女らの多くは、自分を不幸だと思っているだろう。
これに対して、政治的にものを考える人間は、世の中をすっかり変えてしまわなければダメだ、と言うし、宗教的にものを考える人間は、気の持ちようひとつで仕合わせになれる、と言う。
ところが寺山修司は、これを芸術的に考える。ということは、自分を不幸だと思う人間は、その不幸を表現すべきだ、ということである。
むかしのように、食えない、という純粋に物質的な不幸と違って、今日の不幸は、たぶんに、自分は周囲から見捨てられている人間である、という精神的な飢餓感のかたちをとって現れる。だとすれば、自分はこんなに不幸だ!という大声をあげて、周囲の視線を再び自分にあつめることも、幸福を回復するひとつの有力な手段であり得るだろう。
寺山修司は、芸術家として、つまり表現の専門家として、「自分は不幸だ! この不幸な自分を愛してくれ!」という叫び声のあげかたを工夫し、そのさまざまな方法を開発しては、惜しげもなく、それを演出し、公開し、普及させるのである。ただ単に、自分の不幸をピストルに托していたのでは、みすみす、自分を不幸にしている敵の罠にはまるようなものである。
不幸の表現も、ただ真情があふれているだけではダメであって、ときとばあいに応じたテクニックがなければならない。たとえば、少年の家出は不幸の表現のひとつであるが、ただやみくもに家出をしても警察に補導されて説教されて連れ戻されるのがオチである。家出にも計画性がなければならないし、すぐれた表現になっていなければならないであろう。
寺山修司は、世間的には、少年たちに家出を呼びかける扇動者として有名になった。そして、その劇団「天井桟敷」は、彼の呼びかけで家出してきた若者たちのたまり場になり、彼らがその不幸をさまざまなテクニックで表現することによって逆に幸福に変える、一種の道場であると見られている。そこでは、不幸がユーモアに変えられ、幻想に変えられてゆくのである。
三島由紀夫は、太宰治の苦悩など冷水摩擦で治るものだと批判したが、寺山修司は、治るか治らないか、やってみよう、というのである。
彼の劇団そのものが、そうした「身上相談」的方法の実践であるとも考えられる。自分を不幸だと思う人間は、その不幸を舞台で音吐朗々と表現したらいい、というのである。
もっとも、それだけなら、ある種の新興宗教とそう変わりばえしないかもしれない。ただ、宗教においては、すべて、告白は自分がいかに罪深い人間であるかということを自覚させること、即ち自己否定につながるわけであるが、寺山修司の方法では、不幸の告白はあくまでも自己をいかに肯定すべきかという命題へと告白者をいざなってゆくものなのである。そこで決定的に違うのである。
オレは冷水摩擦をやってみた、しかしオレの不幸は治らない、じゃあ、つぎにはなにをやるか、と想像力の渦巻きを起こさせる。それが彼の芸術であり、社会運動であり、幸福論なのである。
本書は、寺山氏の幸福論も、もちろん面白いが、佐藤氏の解説もそれと同じくらい読み応えのある、ユニークな書物である。
天才が、天才を上手く解説する、とでも言うのだろうか。
寺山氏の幸福論を読んで、いまひとつ掴みきれない人も、佐藤氏の解説を読めば、「なるほど」と膝を打って納得すると思う。
佐藤氏も2022年に逝去されたが、書籍化において、このカップリングが成立したのは、文学史に残る快挙と思う(大げさ?)
一般に、寺山氏の世界観をかいつまんで紹介するのは難しく、紹介する本人さえ、実はよく分かってなかったりする。
結局、凄い、面白い、活きがいい、みたいな、ありふれた言葉で終ってしまうのだが、佐藤氏の解説は、解説そのものが一つの作品として成り立つほど明快、かつ濃厚で、真の文芸評論とは、こういうものを指すのかと改めて考えさせられる。
また、こうした才人に支えられ、寺山ワールドも大きく花開いたことは想像に難くない。
何にせよ、物事が成就するには、気温、日光、土壌、三拍子そろって初めて立つということを、つくづく思い知らされる一冊である。
『幸福論』より名言集
幸福論の中から、寺山修司らしい名言を紹介。
わるい天気の時は、わるいままに
幸福であることが他人に対しても義務であることはもちろんだが、自らの毒気を消化し、言いたりない怒りをさえ浄化してしまうような「幸福論」は、ほんの気紛れにしかならないだろう。
おとずれて来る一枚の徴兵令状を見て、(その徴兵令状の印刷の美しさをほめたり)「わるい天気にはいい顔をするものだ」とばかり、ほほえみをたたえていたとしても、その幸福は他人に対しての義務をはたしたことにはならない。
ときには、自分が不幸であることで、他人への誠実を約束する場合だってあるものである。
幸福は、むしろアランの受け入れた「わるい天気」そものもを根源的になくするための日常的な冒険の中にこそ、存在する。(9P)
*
アランは「わるい天気にはいい顔をするものだ」と書いた。
しかし、わるい天気にしているいい顔が、戦後の大部分の詩にみられるペシミズムであり、花もちならないエゴチズムにかわってゆくことまでは予想していない。それは、わるい天気をわるい天気としてしかうけとれぬ感受性が(それを忘れるために)いい顔をしているという七面鳥の苦悩にすぎないのである。(37P)
よく見る幸福論は、「日常の些細なことにも悦びを見出しましょう」「気持ちを明るく持てば幸運が訪れます」「幸せとは自分の内側から来るものです」等々、自身の心の持ち方に帰結する。
しかし、ブラック企業で深夜まで働かされて、今にも死にそうになっている人に、こんな事を言っても何の慰めにもならないだろうし、金もない、友人もない、今から人生をやり直す体力もない年寄りに自己改革を説いても、いっそう惨めに感じるだけだろう。
現代においては、「親が要介護になれば、この制度」「金銭的に行き詰まったら、この窓口」と、具体的なノウハウの方がはるかに有り難い。もはや「気の持ちよう」だけではどうにもならないほど、現代の生活は難しくなっているからだ。
精神性を軽んじるわけではないけれど、私たちを取り巻く環境は昭和エレジーの時代よりいっそう即物的だ。人間の魅力も能力も、あらゆるものが数値化され、競争と評価に晒される。今では心を錦で飾るより、他人の店から錦を盗んでも華やかに着飾る方が、はるかに有利で、説得力がある。ボロは、どう繕ってもボロでしかないからだ。
そこで寺山修司は問いかける。「ボロ」そのものを根源的になくしてはどうか、と。
変装が自己限定から解き放つ
人は互いに、踏み込んだ習慣、ものの考え方、趣味や興味やゴシップが形成している「友情の世界」は、超えがたいものだと思っている。その結果、「友人の選び方自体の中に、自らを規定する階級的考慮」が入ってくるようになり、「自分は、この社会の中での、こんなタイプの人間。こんな身分の人間だ」という自己限定が始まるのである。
私は社会が与える身分の問題を決して軽んずる訳ではないが、ここでは「幸福論」をはばむものとして、「自分が自分に与える身分」の問題――「私とは、××である」と一口で要約してしまう肩書人格を的にまわさねばならないと考える。「さあ、言ってみろ。一口で言えば、おまえは誰なのだ?」
≪中略≫
この××とは、何ら実体とかかわりあうものではない。これはいわば「私」にとっての広告コピイのようなものであり、一つの要素に過ぎないにもかかわらず、いつのまにか「私」は、××でしかないと思うようになり、××人格化してゆき、「××意識」から××の友情を守ってゆこうとしはじめる。
「変装」とは、この××から自分を解放するための日常的な冒険であり、現実世界と想像力世界とのあいだの境界線をとりのぞくための起爆行為である。(71P)
ここでいわれる「変装」とは、「蒸発したと思っていた一サラリーマンが、実は変装して同じアパートに住んでいた」という新聞記事からの例え話である。
人が「自分自身」からどこにも逃げることが出来ない原因の一つに、寺山修司は『私たちは、他人を見張り、同時に他人に見張られることによって社会に参与している。しかし、しばしば「他人に見張られずに他人を見張りたい」という意識を持つようになる(65P)』と書いているが、これはSNSの匿名アカウントになると、実生活からは想像もつかぬほど能弁になる人に喩えると分かりやすいだろう。
天気の悪い日に無理に笑顔を作るより、いっそ何時もの自分から離れ、匿名のメリーさんになって、実質は右でも左でもないのに、炎上ネタに乗っかり、「祭りだ、ワッショイ」と書き連ねる方が、ストレス解消としては手軽なはずだ(人道的な是非は別として)。
しかしながら、別人格になりすましたところで現実が変わることはなく、ログオフすれば、いつもの日常が待っている。匿名アカウントでは1万人のフォロワーがいても、実社会で誰にも相手にされなければ、人生の悦びも半減する。それは「想像によって、不幸せな気分をもたらす原因を根源的になくす」とは大きく異なる。
嫌われない人間は、好かれない
「私は嫌われない人間は好かれない、という単純な数式をここでも問題にしたい。誰かを好くことは、とりも直さず他の誰かを嫌うことである(114P)」
恐らく、現代の大きな不幸の一つは「誰にも愛されない感」だろう。その根底には「本当のことをいえば嫌われる」「目立てばハブられる」という強迫観念じみた思い込みがあり、自己を表出するよりは周囲と同調することを優先する。その結果、自分が自分でないような、いつも自分ばかりが損しているような被害者意識に陥り、周囲は自分を理解してくれない → 誰にも愛されない、という意識に変わっていく。
それはあまりにも「人に好かれる」ということが英雄視され、友人の質よりは数によって評価されるからだ。
その固定観念を乗り越えない限り、友だちが1000人を超えようが、いいねが100個つこうが、心が救われることはない。
常にそれ以上のものに劣等感や羨望を抱き、飢餓感に苦しむようになるだろう。
つまり、世間の固定観念や親の刷り込みなどによる、「私は××だ。だから駄目なんだ」という自身の思い込みを、様々な想像力によって打ち壊すことが寺山修司の幸福論であり、それは上司に口汚く罵られても、ニコニコ笑って、気持ちを明るく保つ――という誤魔化しとは異なる。
寺山流は、そもそも上司が些細なミスであなたを口汚く罵ること、”それ自体を疑え”という話であり、「無理にニコニコ笑う」ことが解決策になるとは考えない。そして、上司の人間性を客観的に分析するには、世の中の事を広く知らなければならないし、偉そうに振る舞う上司の良識がどの程度のものか、多角的に考察できる知力や教養も必要になる。それを身につけることが、人生に対する革命であり、幸福への第一歩なのだ。
平凡な夫婦の発意こそ幸福
『宝くじに当って、生まれてはじめてカタツムリのスープの味を知った中年の夫婦にとって問題なのは「カタツムリのスープの味」自体ではなくて、小市民的幸福の中に人生のベルトコンベアーを敷いてきた中年の男女が「カタツムリのスープをのんでみようか」と発意したという事実である(181P)』
その続きに「いわば宝くじが内的体制の、とりわけ精神経済をゆさぶるパルチザン・ショックによって、新しい現実の切断面との対面の機会を持つ」と脳味噌がとけそうな表現があるのだが、これはパワハラに喩えると分かりやすい。
それまで上司の罵倒に黙って耐えていた新人社員が、「ちょっと待て、ミスした俺も悪いかしれないが、そこまで口汚く罵っていいのか?」と疑問をもち、「俺が間違いなのではない。部長の人間性が問題なのだ」と心理的な罠から抜け出す瞬間みたいなものだ。
そう考えると、『宝くじ』は、当選した金額そのものが幸福なのではなく、それまで質素な田舎料理しか口にしなかった中年夫婦に「カタツムリのスープをのんでみようか」と、日常からの脱出を決意させる点にある。その結果としての素晴らしい体験=幸福感であり、それを手に入れるには、やはり自分(もしくは日常)の殻から抜け出す為の想像力や勇気が必要なのだ。
寺山修司の『幸福論』は、「あなたの心をみるみるラクにする 魔法の言葉」や「デキる男はここが違う! 一流ビジネスマンに習う仕事術」とは大きく異なり、決して安易な慰めは励ましは口にしない。むしろ、ふわりと優しい言葉で怒りや痛みを紛らわすことで、いっそう自分を見失い、問題解決への道を閉ざすのではないかと指摘する。
『いいじゃないの 幸福ならば』 という考えは正しいのか
あのときあの子と別れた私
冷たい女だと人は言うけれど
いいじゃないの幸福ならば有線放送から佐良直美の歌がながれてくる。昨日、堕胎したばかりの「芽」のホステスの”みどり”がそれを自分のことばのように反芻する。「いいじゃないの 幸福ならば」の、「いいじゃないの」というのはみどりの場合、堕胎という全く「わりに合わない」ことへの同僚や客たちの「理性的批判」への回答である。たとえ、非合理であっても「いいじゃないの」というのは、まさに「諸個人のあらゆる不幸をかいくぐって自己を貫徹する一般的理性の進展」と、どのように区分したらいいのだろうか?
≪中略≫
佐良直美は「いいじゃないの 幸福ならば」と、自らの抑圧と犠牲を、秩序の正当化に役立てて、そのために「幸福」を引用するが、引用可能な幸福などどこにも存在しない。
従って、「いいじゃないの」と自他に了解を求める佐良直美=岩谷時子は、諸関係をふり切ろうとするポーズを示しているにすぎないのである。(254P)
昨今の幸福論は、非合理なことを体験しても、「いいじゃないの、幸福ならば」と自分に言い聞かせようとする。
無下に扱われても、無理な要求をされても、「自分が幸せに感じるなら、それでいい」と。
何故なら、現実と向かい合って、正す努力をするより、自分に「幸せ」と言い聞かせる方が楽だからだ。
だが、自分に幸せと言い聞かせたところで、現実は変わらないし、問題が存在する限り、苦痛から解放されることもない。
「いいじゃないの、幸福ならば」という考え方は、「低賃金でもいいじゃないか 幸福ならば」「要介護でもいいじゃないか 幸福ならば」みたいに、本人の精神性に責任転嫁する流れになっていく。
果たして、それが本当の幸福なのだろうか?
寺山修司は『寺山修司から高校生へ 時速百キロの人生相談』という著書の中で、「幸福とはもっと、たけだけしいものだ」と主張する。
幸福とは奉仕の精神では? と問いかける高校生の質問に対し、氏のお気に入りの句「幸福とは幸福を探すことである(ジュール・ルナール)」と併せて、「幸福とは、何かを守ることではなく、新しい価値を創造することです」と回答している。
この場合、「守る」のはいつもの自分、「創造」とは「こうあるべき」の思い込みを打ち破り、カタツムリのスープを味わって、パワハラ上司の心理的罠から抜け出すことだ。
その内なる冒険は、さながら壁を打ち砕くような強い闘志を必要とする。
その過程で生じる損や手間や誤解や、もろもろの面倒を避けて、手頃な幸福論を自分に言い聞かせ、騙し騙しに生きても、結局は自分に嘘を突き通せなくなり、違う自分を生きているような、空しい気持ちがするだろう。
幸福について考えることは、世間が幸福と定めることに自分を合わせることではない。
もしかして俺が幸福と思い込んでいるものは、実は間違いではないかと疑うところから出発するものだ。
その為の想像力であり、これまで自分が正しいと信じてきたものを打ち壊して、新たな価値観を創造する過程を「たけだけしい」と表現する。
それは時に己の枠組みを超えて、会社の在り方、学校の在り方、政治の在り方など、己を取り巻く外的要因を改革する力にもなるものだ。
手頃な幸福論で飼い慣らされる時、それは人間にとっても社会にとっても退歩の始まりであるように感じるのだが、さて若い皆さんはいかがだろうか。
幸せになれない自分も大切にしよう
私も二十代半ばから三十代前半にかけて、突然、「幸せ」について考えるようになり、その手の本もずいぶん乱読したものだ。
女性向けの「愛されて幸せになる系エッセー」から、ビジネスマン必読の自己啓発まで、幅広く。
ジョゼフ・マーフィーにしても、デール・カーネギーにしても、言ってることは全くその通りだし、前向き、肯定的、楽観的、創造的な人間が、後ろ向き、否定的、悲観的、破壊的な人より幸せになりやすいのは本当だと思う。
だが、自分でも、『恋と女性のライフスタイル』や『コラム子育て家育て』のような、癒やし系エッセーを書きながら、つくづく思うのは、
幸せ探しも大事だけど、不幸も大事にしてあげてね。
人生の一時期において、愛や幸せについて真剣に考えることは、決して恥ずかしいことではないし、むしろ真剣に考えることで、新たな道も開けるものだ。
だが一方で、『幸せになれない自分』も大事にして欲しいと思う。
何故なら、それも自分の一部に違いないからだ。
明るさと優しさだけで構成されている人間など皆無だし、もし実在したとしても、ずいぶん薄っぺらい印象を与えるのではないか。
陽の当たる部分だけを見詰め、それ以外は目をつぶるとしたら、結局、自己否定に他ならない。
上手くやれない自分も『自分』、本当の自己肯定感とは、自分の不幸も表現できる事ではないだろうか。
『幸せ』はあくまでデザートのようなものであって、人生の全てではない。
生きることの意義は、裏も表も知り尽くし、それでもやっぱり生きててよかったと、最後には肯定できることだ。
幸せが人生の目的ではなく、我々は、様々なことを経験する為に、この世に降臨するのである。
今が不幸だからといって、人間の価値まで下がるわけではないし、もし、本気でそんな風に考える人がいるとしたら、それこそ不幸だろう。
駄目なところも含めて、もっと自分という人間を楽しもう。
それが寺山流幸福論の真髄ではないだろうか。
手頃な幸福論で飼い慣らされる現代人の不幸について
いつの時代も『幸福論』は重宝されるが、「自分が幸せに感じるなら、全て良し」とする幸福論ほど、お手軽で、麻薬要素の強いものもない。
治ったような気がするだけで、実は何も解決しておらず、幸福に感じようとすればするほど、逆に破滅に突っ走っていくからだ。
人が本当に幸福になりたければ、具体的に行動し、苦しみの原因となるものを取り除くか、自分の欲しいものを何がなんでも手に入れるしかない。
その根本から目を反らして、「なんとなく幸せな気分」を手に入れても、目が覚めれば、辛い現実があるだけだ。
生き甲斐だの、前向きだの、どのように自分に言い聞かせたところで、決して給料が上がらないのと同じく。
そしてまた、幸福の定義は時代によって変わる。
貧しい時には、貧しい者にとっての幸福が語られ、豊かな時代には、豊かさを戒めるような幸福が語られ、それぞれの時代に応じた幸福論が生まれては消えていく。
これほど主観に依るものもなく、どこをどう探しても、結局は「本人の受け止め方次第」に行き着くのが、古今東西、すべての幸福論の本質ではないだろうか。
そんな幸福の本質を知りながら、それを率直に書きたくない。
ビジネスマンが気分転換に手に取るような、安っぽい自己啓発の類いにしたくない。
そんな作家のプライドと、巷にあふれる安っぽい幸福論への懐疑心から、わざとズボンを裏返しにして、読む人に考えさせるのが寺山修司の『幸福論』だ。
書籍の紹介
「あなたにとって幸福とは何ですか?」という問いかけに、大勢の人々が「昼寝」や「テレビをみること」、「美味しいものを食べること」と答えているのを見たならば、あなたはそれをどう感じるだろう。“私たちの時代に失なわれてしまっているのは「幸福」ではなくて、「幸福論」である”と記す著者が、古今東西の「幸福論」に鋭いメスを入れ、イマジネーションを駆使して考察した新たなる「幸福論」。
あまたの幸福論とはまったく趣が違うので、人によっては難しく感じるかもしれませんが、普段自分が当たり前と思っている幸福をちょっと斜めから見直してみたい場合には強くおすすめ。
果たして、世間の人間が言っていること全部が正しいのか、常識って何よ? ということを、時にはガッツリ考えてみるのも楽しいと思います。