松本清張の『鬼畜』について
映画『鬼畜』(1978年)
映画『鬼畜』
鬼畜(1978年) - The Demon
監督 : 野村芳太郎
主演 : 緒形拳(竹中宗吉)、岩下志麻(お梅)、小川真由美(愛人の菊代)
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あらすじ
印刷屋を営む竹中宗吉は、妻に内緒で、愛人・菊代との間に三人の子供をもうけ、父親らしく面倒を見ていたが、商売が傾き、月々の手当が満足に払えなくなると、菊代は三人の子を連れて、宗吉の家に乗り込む。
初めて事実を知ったお梅は怒り狂い、三つ巴の修羅場となるが、ある晩、菊代は、煮えきれない宗吉に痺れをきらし、三人の子供を置いて出て行ってしまう。
宗吉とお梅も初めは面倒を見ていたが、だんだん負担に感じるようになり、一人、また一人と、置き去りにし、ついには長男の手を利一を断崖から投げ落とす。
松本清張の小説『鬼畜』
松本清張の短編小説は、1957年、『別冊文藝春秋』に掲載。
1978年に、緒形拳、岩下志麻、小川真由美の主演で映画化。
その後も、何度かTVドラマ化されている。
【映画レビュー】 本当の『鬼畜』は誰? 松本清張の描く「子捨て」と「子殺し」
映画のあらすじ
小さな印刷屋を営む宗吉の前に、突如、妾の菊代が3人の子供を連れてやって来る。
事業が落ち込み、十分な生活費を手渡せなくなった宗吉に対して、「責任をとれ」とわめく菊代。
7年間、騙され続けたことを知った妻のお梅は激しく憤り、菊代も3人の子供も冷然と突き放す。
宗吉の優柔不断な態度と、お梅の冷淡さについに線が切れた菊代は、「この鬼! 畜生!」と言い放ち、3人の子供を置いて行方をくらましてしまう。
夫の不倫に怒りが収まらぬお梅は、日に日に不満をつのらせ、子供たちに対する虐待が繰り返されたが、父親である宗吉は妻への負い目から止めることすら出来ない。
そうこうするうち、1歳の庄二が不自然な事故で窒息死し、それに味をしめた夫婦は、今度は、4歳になる娘・良子を町中に捨てることを計画する。
住所も名前もろくに言えないのをいいことに、東京タワーの展望台に幼い良子を置き去りにした宗吉は、次に、お梅にそそのかされ、長男・利一を青酸カリで毒殺を試みる。
だが、これに失敗すると、お梅は「沈めば何日も死体が上がらない」断崖絶壁から利一を突き落とすことを提案し、宗吉は気持ちの定まらぬまま、息子を連れてあちこちをさ迷う。
そして、ついに、能登金剛の絶壁に辿り着いた宗吉は、とうとう利一を海に投げ捨ててしまう……。
*
この概要を読んだだけでも、気持ちのやさしい人なら、怒りを覚えるだろう。
だが、この作品は、子捨て・子殺しを実践した夫婦二人を糾弾するのが目的ではなく、彼ら──とりわけ、真面目な小市民で、よき父親でもあった宗吉が、なぜ『鬼畜』へと変貌を遂げたのか、その弱さ哀しさを真正面から描いている。
もしかしたら、その鬼畜の部分は、あなたの中にもあるかもしれない。
そういうことを、静かに教えてくれる作品である。
【見どころ】 泥沼の三角関係と置き去りにされる子供
夫を憎む妻と逆らえない夫
この作品で特筆すべきは、緒形拳(宗吉)、岩下志麻(お梅)、小川真由美(菊代)の名演と、容赦ない演出にある。
とりわけ、凄まじいまでの女二人のぶつかり合いは、「妻と妾」を超えて、「子のある女と、ない女」の罵り合いにも見え、菊代が最後に言い放つ「あんた、自分が産めなかった子供を、私が3人も産んだもんで、悔しいんだろ」という捨て台詞は、子供のない女性にとってまさに臓腑をえぐる刃に他ならない。
女として徹底的に侮辱されたお梅が鬼女と化し、菊代が置いていった子供たちに容赦なく憎しみをぶつける様は、男から見たら残酷かもしれないが、同じ女性の立場に立てば、理解できる部分がある。
本来なら憎むべきは亭主なのに、その亭主を引きずった女と、その女の子供に八つ当たりするのは、まさに屈折した女の情念であり、だからこそ、それに抗えない宗吉の弱さにも納得が行くのである。
妻が子供を虐待しても、何も言えない宗吉。
制作側も、よくこの演出を許した。
(現在、発売されているDVDケースには『一部不適切と思われる表現がありますが、著作物のオリジナル性を尊重し、製作当時のまま収録しております』という断り書きがある)
上の画像にもあるように、今時、こんな演出をしようものなら、どこかの団体の猛烈な抗議を受けて、上映禁止か、下手すれば製作そのものがストップするだろう。
また、演技とはいえ、容赦ない岩下志麻の役者根性も凄まじいとしか言いようがない。
たとえ一瞬にせよ、普通の女の心、母の本能を忘れて、1歳の子供の口に白ご飯を詰め込む場面は、彼女の女優としての力量を物語っている。
*
こうして、真面目な小市民、平凡な一人の父親であった宗吉は、お梅の「あんたに似てないよ。他の男の子供じゃないの」という一言で、あっけなく父親らしい気概を失ってしまう。
母親なら、誰に何を言われても、「これは自分が腹を痛めて産んだ子だ」という絶対的な確信があるけれど、全身全霊で妊娠・出産を体験していない父親は、どうしても繋がりの部分で脆いものがある。
「あんたの子じゃない」と強く言われれば、「そうかもしれない」などと考えてしまう。
実の父親のはずなのに、「自分の子供ではない」と思えば、殺すことも厭わなくなる。
このあたりが、男親の弱さ、哀しさを非常に巧みに描いており、ゆえに、宗吉という人間がどこか憐れむべき存在に思えるのではないだろうか。
子殺しの鬼畜と化す旨既知。緒形拳の表情の変化が素晴らしい。夕日の演出も野村芳太郎らしく。
菊代に罪はないのか?
それにしても、菊代というのもひどい母親である。
いとも簡単に子供を捨てて出て行ってしまう気持ちが、普通には理解できない。
私は、『鬼畜』という作品はフィクションで、清張さんは男だから、母親の子に対する想いがいまひとつ分からず、こういう状況を頭で書いたのかな、と思っていたけれど、gooの映画情報によれば、実際にあった事件をベースにしているそうで、そうなると、いっそう救いがたい気持ちに落ち込んでしまう。
本当の『鬼畜』は誰? と問われたら、一時の感情であっさり3人の子供を捨てた菊代ではないか……と、思わずにいないからである。
もちろん、妻に押し切られたにせよ、子供に手をかけた宗吉は悪い。
夫に子殺しをけしかけたお梅も、同様に。
だが、それにもまして罪深く感じるのは、やはり生みの母・菊代の態度なのである。
*
母親にもいろんな事情がある。
精神的・肉体的疲れ、周囲の無理解、仕事との板挟み、夫との不仲、経済状況、etc。
いつもいつも完璧に「母親」でいられるわけではないし、毎日毎日、子供にこんなことをされれば、こうなってしまうストレスも理解できる。
幼子のいる家庭ではよくある光景です(´д`)
が、様々なプレッシャーに打ち崩されてなお、「母であろう」とする心一つで立ち上がるし、「つらい」からといって簡単に捨てられるものでもない。
子供捨てるのと、ストレスまみれの生活と、どちらが取りなさい、と言われれば、おそらく99%の母親がストレスまみれの生活を選ぶだろう。
母親というのは、そういう風に出来ている。
だからこそ、母も子も、生きて行けるのである。
*
だが、もし、母親が、母であることを放棄すれば、どんな形にせよ、それは子供の死に繋がる。
肉体的な死はもちろん、心もまた死ぬと言える。
直接的に殺したのは宗吉でも、子供を死に追いやったのは菊代であり、一番罪深いと言えば、やはり3人の子供を見捨てて行方をくらました母親だと思わずにいないのである。
小川真由美の渾身の「この鬼!」……
清張さんの原作は、小さな石版の欠片から犯人の足がつく場面で終わっており、映画は、宗吉が逮捕された後のエピソードをクライマックスに描いている。
映画のラストで語られる、「今は子供の養護施設も、どこもいっぱいでね。子を育てる能力が無い、というか、子育てを放棄する親が増えているんだよ」という台詞が登場したのは、この映画が製作された1978年のこと。
その頃から、親の弱さはちっとも変わっていないだと思うと、なんともいたたまれない。
にもかかわらず、母親であろうとする者、本能で立ち上がろうとする人たちを、たとえ今が過ちだらけであっても、私は心の底から応援したいと思うし、清張さんも、そういう気持ちがあればこそ、宗吉という人間を創作したのではないかと思う。
これがただ糾弾するだけの話なら、それこそ、宗吉というのは人間的な心をいっさい持ち合わせない、悪魔のごとき父親として描かれただろうから。
時には、自分の中の鬼畜に負けそうになるかもしれない。
でも、決して子供を捨てたりはしない。
一人でも多くの親が、今日、この時を、歯を食いしばって耐えた時、拳さんも、清張さんも、「この作品を創った甲斐があった」と満ちるような想いで迎えて下さるのではないだろうか。
大竹しのぶの婦人警官が可愛い
海に自家用車が転落し、元ホステスの若妻・球磨子は助かったが、資産家の夫は死亡した。球磨子は計画殺人の疑いで逮捕されるが、国選弁護人・佐原律子が意外な真相を突き止める。容疑者に対する悪のイメージが捜査を捻じ曲げ、世論を形成する危険性を描いた良作。弁護人を演じる岩下志麻の凜とした演技と、球磨子を演じる桃井かおりの悪女っぷりが秀逸。
日露戦争に備えて冬の八甲田山で雪中行軍が行われるが、経験不足と指揮系統の乱れから青山第五連隊は極寒の雪山で壊滅する。北大路欣也の「天は我々を見放した」の名台詞で知られる野村芳太郎監督の代表作。高倉健、三國連太郎らの名演も素晴らしい。
小説『鬼畜』について
小説の見どころ
『この男、まさに鬼畜! 許せん!!」と文庫本の帯にあるが、それでもやっぱり<鬼畜>は生みの親である『菊代(=小川真由美)』という印象に変わりない。どんな理由があれ、ある日突然、三人の子供を置いていっていいわけがないからだ。
男が養育費を払わない、口先ばかりで離婚しない、子供に暴力をふるう、等々、腹立ちの理由はあっても、母親は自分の生んだ子供をそうそう『置き去り』にできるものではない。実際、精神的にも経済的にも過酷な状況にあっても、必死に子育てしている人なら分かるのではないだろうか。
もちろん、責任の一端は、無計画に愛人に子供を産ませた宗吉(=緒形拳)にもあるが、それでも、やっぱり、菊代の行動に首をかしげざるを得ないのは、あまりにあっさり『置き去り』にできる心理にまったく共感するところがないからだろう。
むしろ、ある日突然、愛人の子供を三人も押し付けられたお梅の怒りと苛立ちの方が理解できるのは、私が母親の視線でこの作品を読むからかもしれないが、たとえ、それが松本清張の意図とは全く違っても、本当の鬼畜は誰かと問われたら、『菊代』と応えざるを得ないのだ。なぜって、菊代が短気を起こして、三人の子供をほっぽらかしたりしなければ、もっと何とかなったかもしれないからだ。
どんなに苦しくとも、絶対にそれだけはしない世の母親たちの心情を思えば(たとえ自分の口に白飯が入らなくても、バイト掛け持ちで睡眠時間が5時間でも)、ますますそのように感じる。
映画では、お梅が、一歳の子供の口に白飯を突っ込んだり、宗吉が崖から子供を落としたり、誰がどう見ても鬼畜の振る舞いではあるが、それでも、やっぱり私が鬼畜に感じたのは、三人の子供を残して、ぷいと出て行った菊代の後ろ姿なのである。
竹中宗吉の人物像
松本清張の小説では、子捨ての鬼畜となる竹中宗吉について、次のように紹介されている。
竹中宗吉は三十すぎまでは、各地の印刷屋を転々として渡り歩く職人であった。こんな職人は今どきは少なくなったが、地方には稀にあるのだ。彼は十六のときに印刷屋に弟子入りして、石版の製版技術を覚え込むと、二十一の時にとびだして諸所を渡り歩いた。違った印刷屋を数多く歩くことを、技術の修行だと思っていたし、実際そうでもあった。。
宗吉は、二十五、六になると立派な腕の職人になっていた。殊にラベルのような精密な仕事がうまく、近県の職人仲間の間で彼の名を云えば、ああ、あの男か、と知らぬ者が無かった。それぐらいだから雇い主は、彼に最上の給金を払って優遇した。彼は酒もあまり飲めず、女買いも臆病な方で、あまった金は貯金通帳にせっせと入れた。将来、、印刷屋を開くつもりはあったのである。*
宗吉は三十二歳でようやく渡り職人をやめて、小さいながら印刷屋の主になった。
整備は中古の四裁機械一台であった。が、これはラベルのような小物を刷るには格好であった。石版印刷の上がりは、色版という製版技術が効果を左右する。宗吉の腕は多年処方を渡り歩いて鍛えているので、刷上がりは見事であった。*
宗吉が、はじめてお春(=菊代)の身体を知ったのは、それから三月ぐらい経ってからである。≪中略≫ 宗吉の商売は順調だったから「ちどり」で使うだけの金は自由になった。彼はかなりのチップをお春に出した。
*
「そう、浮気でするならいやよ。わたしは誰ともこんなことをしたことないのよ」
「浮気じゃない。お前のことは考えている」
「そう、きっとね? 捨てないでみてくれるのね?」
女のこの質問の意味の重大さを彼は半分気付いていた。彼の熱い頭の中は、いまの商売の順調を勘定した。この女ひとりくらいは、何とかなりそうな気がした。
宗吉という男は、本当に平々凡々とした印刷屋の職人で、小市民らしく、ちっと小金ができれば上等な料理屋で遊んでみたくもなるし、羽振りがよければ、女の方から声をかけてくる。自分の成功を実感する為に金を使い、女を抱く、というのは、ありふれた話で、宗吉も、男と生まれたからには、一度はそんな眩しい思いも味わってみたかったのだろう。
ところが商売がだんだん傾き、菊代と三人の子供への養育費も滞りがちになると、しびれをきらした菊代は三人の子供を引き連れ、宗吉とお梅の住まいに押しかけてくる。良妻賢母とまではいかなくとも、必死で夫を支え、小さな印刷屋を切り盛りしてきた妻のお梅にしてみたら青天の霹靂である(しかも3人)。そして、この怒りが夫にではなく、愛人の菊代とその子供に向けられるのが、いかにも『女』という感じ。そう、不思議だけれども、浮気のばれた男の妻は、男ではなく、愛人を恨むんだよね。
子を見捨てる菊代と実子への疑惑
生んだ子を見捨てて、去って行く菊代の描写は次の通りである。
「畜生」
と、いきなり板の間から菊代が叫んで起き上がった。足を踏みならして来た。
「お前たち夫婦は鬼のような奴だ」
蚊帳のすぐ横で彼女はわめいた
「それでも人間か。そんなにこの男が欲しかったら、きれいに返してやる。取られぬようにするがいいよ」
菊代の声は喉の奥から発声して異様だった。お梅に云っているのだ。
「その代わり、この子たちは、この男の子供だからね。この家に置いて行くよ」
そして、菊代が去った後、お梅が衝撃の言葉を口にする。
「これはあんたの子かえ? 似てないよ」
あれは女の直感ではなかろうか。彼が気付かないものをお梅は見破ったような気がする
このあたり、男というのは実感がない。女性は十日十月、胎の中に持ち歩いて、うんうん唸りながら産んだ思い出があるけれど、男は原因から結果に至るまでの生体的な繋がりがなく、かろうじて『情』というもので絆を認識するのみである。女性は自分の子供を見間違えることは絶対にないけれど、男性は「そうだ」と言われたら、そう思い、「そうじゃない」と言われたら、そうじゃないかも……と思い込む、あるいはそう思いたい心理があって、このあたりが認知で揉める理由の一つだろう。
いずれにせよ、これが引き金になり、父と子の心の絆にあっけなくひびが入る。
赤子の死と「気が楽になったね」
その後、末っ子の庄二が体調を崩し、宗吉とお梅は、渋々ながらも看病していたが、ある時、毛布の下で窒息して死亡する。
ここでお梅が口にする言葉も衝撃的だ。
宗吉は三畳に足早に行った。寝ている筈の小さな顔がそこに無かった。布団だけがもり上がっている。宗吉は声を吞んだ。うす暗いところに眼をさだめると、庄二の顔の上には古毛布がくしゃくしゃになって落ちていた。毛布は重々しい皺をつくっている。それはいかにも子供の顔の上にばさりとかけたという感じであった。
≪中略≫
医者は死亡診断書を書いた。病み衰えたこの子の死に、医者は疑問を持たぬようだった。宗吉は安心した。
「これで、あんたも一つ気が楽になったね」
とお梅は宗吉に云った。眼もとに微かな笑いを見せた。近ごろ、滅多に無いことであった。
この言葉も、子供でさんざん苦労した者にしたら、非常にリアルな言葉だ。
皆が皆、虐待のような気持ちを持つわけではないけれど、「子供が一人でラーメンを作れるようになり、ほっとした」「日曜日、子供が旦那と公園に出掛けてくれて、ほっとした」みたいな開放感は誰でも少なからずあるし、手が離れるほどに気持ちも楽になるのは本当の話だから。
お梅でなくとも、子育ての負担が消えた時、真っ先に出てくる言葉は「ああ、楽になった」ではなかろうか。
もちろん、このケースは極端であるけれど、『楽になった』という言葉に、親の苦悩や葛藤がぎゅっと凝縮されているような気がするのだ。
この子は、おれの子ではない ~宗吉の葛藤と殺意
そうして、味をしめたお梅と宗吉の子捨ては、ついに長男の利一へと及ぶ。
この子は、おれの子であろうか、とまたしても宗吉は疑問が起った。いや、おれの子ではあるまい。眼が第一違う。鼻も口も違う。菊代には似ているが、おれに似たところは少しも無いではないか。おれの子ではない、おれの子ではない、と自分に納得させた。
これもまた生々しい自問自答である。
いかに鬼畜のような感情を覚えようと、『我が子』であれば、手をかけることはできない。
宗吉がお経のように「おれの子じゃない、おれの子じゃない」と唱えるのも、やはりそこに人間性があり、親としての感情が渦巻いているからだ。
言い換えれば、人間と鬼畜を隔てているのは、ただ一点、自分の子であるか否かという実感だけである。
それが『親』の本質であり、「人間であること」より「親であること」の方が、人にとってははるかに重いのだ。この場合、皮肉であるけれど。
宗吉は、利一を抱いたまま立ち上がった。子供は覚えずに睡りつづけている。その顔も暗くてよく分からなかった。その方が宗吉には助かった。
宗吉は利一を抱いたまま、崖の上に立った。暗闇なので、遠近感がなく扁平であった。ただ、下の方で波が鳴っているだけである。が、何も見えないところに、下の音だけを聴くのは、かえって上下の距離感がせまった。
宗吉は利一をほうった。暗いので物体の行方は眼に見えない。彼の腕が急に脱げたように軽くなっただけであった。その軽さは、どこか彼の解放感に通っていないか。彼は瞬間眼ををつむると、背中をかえしてもとの方へ一散に駈けた。
松本清張も上手いよね。
子供の顔が見えない方が好都合という殺人者の心理。
そして、ほうった後の「物体」という表現。
親としても人間としても心が死んだ瞬間だ。
平凡な小市民だった男が鬼畜となる時、相手が『人である』という認識はない。
そして、この殺人は、意外なところで足がつく。冒頭に登場する「印刷の仕事」がその伏線だ。
決定打となる物的証拠も面白い。それがまた「子供の遊び」に端を発している……という点に物語性を感じる。
ただ一点、小説と映画が異なるのは、映画には“映画らしいエピソード“が挿入されている点である。
小説としては、松本清張の終わり方で十分だと思うし、映画は映画らしく心に迫って、これまた素晴らしい。
緒形拳のあの演技なら、松本清張も納得ではないか。
この事件で裁かれるのは、宗吉とお梅であり、生みの親としての菊代の咎は描かれていない。
(現代なら育児放棄として社会的に制裁されるだろうが)
我が子の悲惨な運命を知った菊代の心情はいかなるものか。
そこであっさり割り切れたら、それこそ<鬼畜>である。
初稿:2009年8月28日