『西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編』によると、『天国』の絵はどれも似たり寄ったりで退屈なのに対し、『地獄』の方はどれも想像たくましく、生き生きとした名作が多いそうです。
実際、神や天使を描いた名画より、ヒエロニムス・ボッシュの「聖人を誘惑する奇怪な悪魔」や、フュースリの「夢魔」や、フランシス・ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス 」のように、地獄や怪物を描いた絵の方が妙に人を引きつけて離さないですよね。
恐ろしいことや残酷なことに、より想像力が働くのは、誰の人生も天国よりは地獄寄りにだからかもしれません。
一方、『地獄 極楽 胸三寸』という言葉があるように、私たちが地獄と思い込んでいるものも、少し目線を変えれば、違う景色に見えてくるものです。
山本鈴美香 の名作『エースをねらえ』で語られていたエピソードですが、極楽の食卓にも、地獄の食卓にも、同じ大きさの皿、同じ量の食べ物がのっていて、誰でも自由に食事できるそうです。
ところが、箸の長さが大人の背丈ほどある為、一人では到底食べ物を口に入れることはできません。
そこで極楽では「あなたからどうぞ」と向かいの席の人に食べさせ、今度は向かいの席の人が「あなたもどうぞ」と食べさせてくれる。
そうして、お互いに食事を分け合う為、いつも皆が満たされています。
対して、地獄の亡者は、我先に食べ物を口に入れようとするので、満たされることがありません。
長い箸の先からぽろぽろと食べ物がこぼれ落ち、誰の口にも入らないからです。
ほんの少しの忍耐と思いやりで、自分も相手も満たされるのに、自分のことしか考えない我利我利亡者は、何でだろう、何でだろうと苦しみながら、皿の食べ物を長い箸で引っかき回すだけ、何も見えないし、考えもしないのです。
そう考えると、人間というのは、己の欲望ゆえに地獄を作り出し、一人で勝手に苦しんでいるのかもしれません。
人が天国よりも、地獄の絵の方が上手に描けるのは、そこの住人だからという気がします。
初稿: 2000/12/29(金)