映画『ゴッドファーザー』 三部作について
作品の概要
マリオ・プーツォのベストセラー小説をベースに、若干27歳のフランシス・コッポラが監督した映画『ゴッドファーザー』は、物語のみならず、衣装、決め台詞、血の掟、等々、時代のアイコンとなり、威厳あるドンを演じたマーロン・ブランドは言うに及ばず、三人の息子を演じた、ジェームズ・カーン、ロバート・デュヴァル、アル・パチーノ、そして続編で若き日のヴィトー・コルレオーネを演じたロバート・デニーロの名声を不動のものにした。
続く Part Ⅱ、Part Ⅲ も世界的ヒットとなり、コルレオーネ一家の歴史はアメリカ映画界の歴史でもある。
マーロン・ブランドの演じる『ドン・コルレオーネ』のイメージがあまりに強烈な為、マフィアの抗争を描いたアクション映画に見えるが、本質は「愛とは」「家族とは」「人生とは」を描いた重厚な人間ドラマだ。
マリオ・プーツォの原作を読めば、その奥深さに驚かされる。
今となっては、映像や演出の古さは否めないが、重厚な人間ドラマや大河(サーガ)が好きな方なら一度は見て欲しい傑作である。
三部作のあらすじ
※ 各パートの詳細は記事後半に記載しています。
イタリア系移民のヴィトー・コルレオーネは、同胞の頼み事を聞くうちに、移民社会で強い影響力を持つようになる。
やがてヴィトーの組織は帝国のように強固なものとなり、米国の政治経済の中枢まで入り込むようになる。
そんなヴィトーを周りの者は敬意をもって『ドン・コルレオーネ』と呼び、ヴィトーも自分に敬意と友情を示す者の頼み事は何でも聞いてやった。
ドン・コルレオーネが彼らに求めることは、ただ一つ。ドンの要請には必ず応えることだ。
だが、ニューヨークでの覇権を目指すタッタリア・ファミリーは、ファミリー間の掟に背いて、買い物中のドン・コルレオーネを狙撃し、ドンは瀕死の重傷を負う。
ドンには三人の息子があった。血の気の多い長男ソニー。臆病な次男フレドー。ファミリー・ビジネスから距離を置いている、米軍士官の三男マイケルだ。
だが、この出来事をきっかけに、マイケルはファミリーに深く関わるようになり、やがて運命の時が訪れる。
*
ヴィトーの後を継いだマイケルは、ファミリーを合法的なビジネスにすべく、権力の枝葉を広げていた。
しかし、マイケルに引け目を持つ次男フレドーは、マイケルを敵視する勢力に絡め取られ、暗殺の標的となる。
ファミリーを守るべく、マイケルはいっそう力を振るうが、妻のケイはそんな彼を怖れ、夫婦関係も破綻する。
マイケルの脳裏には、家族もファミリーも大切に育てた父ヴィトーの面影があった。
なぜ父には出来て、自分には出来ないのか。
マイケルの孤独と苦悩はいっそう深まる。
*
やがて二人の子供たちは成人し、娘メアリーは『ヴィトー・コルレオーネ財団』の代表者に、息子アンソニーはオペラ歌手になる。
非合法なビジネスから完全に手を引き、合法的存在となる為に、マイケルはバチカンと関係の深い投資会社の株を取得し、何もかも計画通りに見えたが、マイケルの経営権取得に難色を示す者と、コルレオーネ・ファミリーの方向転換に恨みを持つ者たちが手を組み、マイケルの命を狙う。
兄ソニーの私生児ヴィンセント・マンシーニがマイケルの護衛を買って出るが、ヴィンセントは娘メアリーと激しい恋に落ち、事態はいっそう複雑になる。
そんな中、故郷シシリーで、アンソニーの初公演『カヴァレリア・ルスカティーナ』が開催され、コルレオーネ・ファミリーが一堂に会するが、会場には暗殺部隊が送り込まれ、悲劇が足早に近づいていた。
果たして、ヴィンセントはマイケルを守り抜くことができるのか。そして、メアリーとの恋は……。
『ゴッドファーザーPart3』は金目当てだったと言う人もいる。しかし、これは価値ある終章である。テンポが緩いのではない。コッポラは枯淡(こたん)の辛抱強さと非情さで、償いをしようとするマイケルの周りに、過去の罪を降らせているのである (amazon.com)
amazonプライムビデオでも視聴できます。(吹替版もあり)
・ ゴッド・ファーザー (字幕版)
・ ゴッド・ファーザー PartⅡ(字幕版)
・ ゴッド・ファーザー PartⅢ(字幕版)
『ゴッドファーザー』 の魅力
私が初めて『ゴッドファーザー』を見たのは小学生の時だ。長男ソニーがハイウェイの料金所で蜂の巣にされるシーンばかりが脳裏に焼き付き、どこがどう名作なのか、子供の感性には理解できなかったが、大人になって、原作を読んでから、本作に対する見方が変わった。
これは単なるギャング映画ではなく、ヴィトー・コルレオーネという知に長けた男と信義によって結ばれた仲間、そして、
これは単なるマフィアの抗争劇ではなく、「家族とは」「人生とは」を描いた重厚な人間ドラマである。
かといって、神のように慕われるゴッドファーザー、ヴィトー・コルレオーネは、決して絵に描いたような善人ではないし、世のため人のために弱者の願いを聞き入れる慈善家でもない。
ヴィトーの本質は、小説でも指摘されている通り、あくまで「見返りを期待した」エゴイスティックなものであり、保身の為の優しさだ。
しかし、彼は『本物の男』であり、一家の主であり、その強烈な哲学を理解できれば、バイオレンスとはかけ離れた深い精神性が見えてくる。
本来なら、「庶民の敵」とも言うべき冷徹なマフィアのドンなのに、見た者が共感せずにいないのは、彼こそが『父』と呼ぶにふさわしい「男の中の男」だからだろう。
映画では3部作が製作され、映画史に残る大作となった。
パート3に関しては「金儲け主義の蛇足」との批判もあるが、ファミリーの壮大な叙情詩として楽しむ分には、やはり欠かせないエンド・ストーリーだと思う。
現代のアクション映画のように、決してハイテンポな作品ではないが、この映画の代名詞とも言うべきマーロン・ブランドをはじめ、アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ、ジェームズ・カーン、ダイアン・キートンといった現代の名優たちの演技を見るだけでも胸がいっぱいになる。
マフィアならずとも惚れ惚れするヴィトー・コルレオーネの生き様をぜひ味わって欲しい。
ゴッドファーザー PartⅠ ~新たなるドンの誕生
あらすじ
イタリア系移民社会で絶大な信頼を得るヴィトー・コルレオーネは、一方で跡継ぎ問題に頭を悩ませていた。
長男ソニーは短気で、到底、ドンの器ではない。次男フレドーは気弱で、優しいだけが取り柄だし、頼りの三男マイケルは米軍に従事し、ファミリーよりも米国に忠誠を誓っている。
そんな中、ニューヨークの覇権を目指すタッタリア・ファミリーがヴィトーに刺客を送り、ヴィトーは重傷を負う。
復讐を請け負ったのは、意外にも、マイケルであった。
イタリアン・レストランに一発の獣性が鳴り響き、マイケルも血で血を洗う運命に巻き込まれていく――。
*
DVDボックスの特典ディスクによると、製作過程は決して順調ではなく、配給会社は若いコッポラにも、パチーノにも冷たかったとか。
また、気難しいマーロン・ブランドは、「ギャラが高い」「台詞を覚えない」「撮影に遅れる」と三拍子そろった映画界の鼻つまみもので、コッポラ監督は彼のお守りに大変苦労したらしい。
にもかかわらず、完成作は映画史に残る傑作となった。
俳優陣の顔ぶれだけでも奇跡のような豪華キャストである。
映画だけ見ると、バイオレンス・シーンばかりに気を取られるかもしれないが、原作を読むと、主演格の俳優陣がいかにキャラクターを研究しているかがよく分かる。
「ドン・コルレオーネ」のマーロン・ブランドを見るだけでも一見の価値あり。
年を重ねるごとに良さが分かる、まさに「大人の映画」だ。
映画と原作との違い
映画においては、サブキャラのサイドストーリー(ジョニー・フォンティーンやルーシー・マンティーニのその後)が全面的にカットされているのは残念だが(上映時間の都合上、これは仕方ない)、コッポラ監督が卓越した技量の持ち主であることは随所で伺える。
ドン・コルレオーネの死
・原作 …… 家族に看取られながら、「人生は美しい」と言い残して死ぬ。(ちょっとクサイかも……)
・映画 …… 庭で孫の遊び相手をするうち、心臓発作に襲われ、誰に看取られることなく息を引き取る。
この場面に関しては、映画の方に軍配が上がる。
黄昏の光の中、マイケルの息子、アントニーを喜ばせるために、オレンジの房を歯に挟んで「が~っつ」と怪獣の真似をするシーンや、アントニーにジョウロを持たせて、トマトに水をやるシーンなど、非常に詩的で美しく、最後は「マフィア」ではなく「一家の長」、人間としてのドン・コルレオーネを強調して描いている。
ゆえに彼の死が、結果的にマイケルの人生を狂わせてしまう痛ましさが余計で胸に迫る。
「人生は美しい」の台詞を言わせなかったのも、コッポラ監督としては正解だったのではないだろうか。
ドン・コルレオーネの襲撃
これは映画も原作もシチューエーションは全く同じである。
フレドーに付き添われて果物屋でオレンジを買い求めている時、二人の刺客が駆け寄ってきて、至近距離からドンに銃弾を浴びせるのだ。
映画では刺客が駆け寄る場面、ドンが危険を察して「フレドー!」と叫ぶ場面、路上にオレンジが転がる場面など、細かなショットが巧みにつなぎ合わされ、非常に緊迫感がある。
また、ドンが弾丸を撃ち込まれ、車のボンネットにうつ伏せに倒れる場面が、側面ではなく、天上から見下ろすようなアングルで撮影されているのにコッポラ監督のセンスの良さを感じる。
ここはファミリーの運命を狂わせる重要な場面だけに、映像化も難しかったと思うが、一つ一つのカットが非常によく錬られて、まさに「歴史的」と呼ぶにふさわしい名場面に仕上がっている。
ソニーとルーシー・マンティーニの関係
原作 …… ルーシーがなぜソニーを挑発し、肉体関係を持つに至ったか。その後、ルーシーはどうなったか、内面まで丁寧に描かれている。
映画 …… 単なる浮気相手として登場(ドア越しに、アッハンアッハンして終わり)
これは原作の方に軍配が上がる。
時間が許せば、コッポラ監督もルーシーのサイドストーリーを描きたかったはずだ。
Part3では、ソニーとルーシーの間に生まれた「ヴィンセント」が後継者として登場するが、この繋がりは原作を読まないと、ピンとこないかもしれない。
映画では、単なる情事の相手として、エッチするだけで終わっているので、原作ファンとしては非常に残念である。
マイケルの復讐
ドン・コルレオーネの死後、ファミリーの長として指揮を執るようになったマイケルは、対立するファミリーのドンを次々に襲撃して復讐を果たす。
この場面は、妹コニーの子供の『ゴッドファーザー(キリスト教における代理父)』として洗礼式に臨む場面と交差するように描かれているが、これはすなわち、ファミリーのドンとなった「マイケルの洗礼式」でもあり、その『洗礼』はキリストの正義ではなく、血にまみれたマフィア道への入り口である。
それまで家業とは一線を引き、平凡な一市民として生きようとしていたマイケルが、マフィアのゴッドファーザーに生まれ変わる、象徴的な場面である。
ゴッドファーザー PartⅡ ~若き日のヴィトーとマイケルの宿命
あらすじ
ファミリーのドンとなったマイケルは、二人の子宝に恵まれ、妻のケイとも幸せにしていた。
だが、次兄のフレドーはマイケル中心のファミリーの在り方に不満を抱き、反対勢力に飲み込まれていく。
マイケルの葛藤と重なるように、若き日のヴィトー・コルレオーネの活躍が描かれ、愛に支えられた父の人生とは対照的なマイケルの行き方が浮き彫りになる。
前作に引き続き、74年のアカデミー作品賞ほか全6部門受賞。
*
大成功を収めたPart Ⅰに引き続き、制作された。
偉大なるヴィトー・コルレオーネの後を継ぎ、ファミリーのドンとなったマイケルのその後を描いているが、本作が単なる「柳の下のドジョウ狙い」でないことは、非常によく練られた脚本を見れば分かる。
脚本・構成には、原作者のマリオ・プーヅォも参加しているだけあって、第一作に匹敵する完成度だ。
また、本作においては、第一作で影の薄かった次兄フレドーにスポットをあて、無視された兄の悲哀が随所ににじみ出す。
長男ソニー亡き後、この世でたった二人の兄弟なのに、それしか選択肢が無かったのか・・と、マイケルに詰め寄りたくなるような悲劇的結末だが、それ故に、ドンとして生きるマイケルの非情と孤独が強く伝わってくる。
しかし、何と言っても秀逸なのは、ラストの回想シーンであろう。
観る側にとってもまったく予期せぬ展開であり、このラストシーンゆえにPartⅡは不朽の名作となったといっても過言ではない。
ついで、若き日のヴィトー・コルレオーネを演じるロバート・デニーロのダンディでセクシーなこと。
すらりと背が高く、ふるいつきたくなるような、いい男です。
マイケルの現代の若き日のヴィトーとの違い
兄・フレドーとの確執
父ヴィトー・コルレオーネが後継者を選ぶ際、次兄のフレドーはその弱さゆえに最初から論外で、迷わずマイケルを指名したわけだが、その事実がフレドーの心に重くのしかかり、Part2では、その苦しい心中をマイケルにぶちまける。
自らの境遇を嘆くあまり、心ならずもマイケルの暗殺計画に加担してしまったフレドーは、一度はマイケルの許しを得るものの、それはあくまで一家の手前のパフォーマンスに過ぎず、マイケルの気持ちは最初から決まっていた……。
PartⅡの核心とも言うべきフレドーのエピソードは、前作の家族愛の物語からは想像がつかないような展開だ。
「そこまでやるか?」と詰め寄りたくなるようなマイケルの冷酷さは、コルレオーネ・ファミリーを全米一にまで押し上げるが、人間としては彼を孤立させ、最後まで家族愛に満ち足りていた父・ヴィトーとは全く正反対の人生を歩むことになる。
その象徴的な出来事がフレドーとの確執であり、一度は絶縁しながら、妹コニーのたっての頼みで仲直りの抱擁をする場面は、後の悲劇を思えば思うほど痛ましい。
フレドーを演じたジョン・カザール の悲哀に満ちた演技も素晴らしく、彼が助演男優賞を獲ってもよかったぐらい。
ケイとの破局
大学時代はホットな恋人同士だったケイとマイケル。
しかし、父ヴィトーの襲撃事件をきっかけに、マイケルは否応なしにファミリーの仕事に巻き込まれ、ついには人殺しも厭わぬマフィアのドンに上り詰める。
マイケルが主張する「君と、家族のため」は、ケイにとって「悪の道」でしかなく、二人の関係は次第に険悪に。
マイケルがファミリーの為に頑張れば頑張るほど、ケイとの間に隙間ができ、仲間とも心が離れていく様が、父ヴィトーとは対照的だ。
新旧の板挟みに揺れる古参の部下フランク・ペンタンジェリが最後に呟く、「昔はよかった」の一言が全てを物語っている。
それだけに、最後に差し込まれた、あの伝説のワンシーンが心を打つのだ。
誰よりも強くなろうとするマイケルの手法が、だんだん恐怖政治になっていく過程は興味深い。
ゴッドファーザー PartⅢ ~娘の恋とコルレオーネ一家の終焉
あらすじ
世界屈指の富豪となったマイケル・コルレオーネは、ファミリーの血生臭い過去を拭い去り、全てのビジネスを合法化する為、バチカン内の資金運営に携わるギルディ大司教と手を組み、投資会社「インターナショナル・インモビリアーレ」の経営権を取得しようとしていた。
一方、愛娘のメアリーは、ソニーの遺児で、マイケルの甥っこでもある、ヴィンセントと恋に落ち、二人は結婚を望むようになっていた。
だが、マイケルが「インターナショナル・インモビリアーレ」の経営権を取得することを望まない勢力が、容赦なく攻撃を仕掛ける。
再び流血を予感したマイケルは、メアリーとヴィンセントに別離を迫るが、メアリーは断じて聞き入れない。
様々な思いが交錯する中、オペラ歌手であるマイケルの息子アントニーの初舞台が開かれる。
だが、その会場にもすでに刺客が入り込んでいた。
果たしてマイケルは危機を回避し、メアリーとヴィンセントは結ばれるのか。
オペラ『カヴァレリア・ルスカティーナ』の世界観と重ねた、堂々の完結編。
*
『PartⅢは本当に必要だったのか?』
賛否両論の続編だが、私はあれで良かったと思う。
amazonレビュアーの中には、メアリー役で出演したフランシス・コッポラの娘、ソフィア・コッポラがブスだという意見もあるが、優雅で、愛らしいと思う。
ファミリーの存続のため、実の兄まで手にかけたマイケルも老境に差し掛かり、ファミリーのさらなる発展と合法化を目指して、バチカンとの連携を推し進める。
一方、頼りになる後継者を求め、実兄ソニーと愛人ルーシーの間に生まれた男子、ヴィンセント・マンシーニを側近に置くが、ヴィンセントとメアリーはたちまち恋に落ち、マイケルの運命も次第に歯車が狂い始める。
PartⅡから二十年の歳月が経っていることもあり、物語も一気に現代風になるが、アル・パチーノが老境に達したファミリーのドンを哀愁たっぷりに演じ、コッポラの愛娘ソフィアが花を添えている。ラテン系の美男俳優、アンディ・ガルシアのセクシーな魅力も必見で、いまいち頼りげなところが、ファミリーの暗い将来を予感させるところが何とも……(^_^;
シシリーを舞台にしたオペラの名作『カヴァレリア・ルスカティーナ』を効果的に取り入れ、トリロジーの最終章にふさわしい華やかさである。
マリオ・プーヅォの原作
小説のレビューを先に書いたので、文体が少し違っています。あしからず
作品の詳細
マリオ・プーヅォの小説は、「映画のノベライズ」ではなく、こちらがオリジナルなので、人物描写も細かく、映画を凌ぐ大河ドラマに仕上がっている。
また翻訳の一ノ瀬直二氏の訳文もリズミカルで格調高く、上下巻にもかかわらず、一気に読めてしまう。
ソニーの愛人、ルーシー・マンチーニのその後のように、映画化にあたっては、かなりのエピソードが省略されているので、PartⅠとPartⅡのファンは、ぜひ小説も読んで欲しい。
ハヤカワ系ではあるが、非常に読み応えのある文芸大作である。
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名付け親「ゴッドファーザー」とは
この世に一人だけ、彼を救える人がいる。
ジョニーはニューヨークに帰るつもりだった。
彼に必要な権力と知力、そして彼がいまだに信じている愛とを備えもつ一人の男のもとへ帰るつもりだった。
彼の名付け親(ゴッドファーザー)、ドン・コルレオーネのもとへ。
落ち目の歌手ジョニー・フォンティーンは、せっかくモノにした大女優の妻にも、取り巻き連中にも馬鹿にされ、屈辱的な日々を過ごしています。
しかし彼は歌手として再起するために、彼の偉大なゴッドファーザー、ドン・コルレオーネに助けを求めるのでした。
大事なのは、友情の証を見せること
ドン・ヴィトー・コルレオーネは、誰もが助けを求めに来て、しかも決して裏切られることのない男だった。
自分が友人であるかどうかとか、恩義に報いる術がないとかいったことは問題ではない。
そこで要求されることはただ一つ、つまり、彼への友情の証を見せることだった。
彼への報酬はといえば、友情、“ドン”という尊称、あるいはもっと愛情のこもった「ゴッドファーザー」という呼び名がそれであった。
映画は、娘の結婚式の日に、ドンが葬儀屋から殺人を依頼される場面から始まります。 (原作では裁判の場面)
この男は、我が娘を陵辱しながら無罪となった犯人に復讐したい一心で、ドンを訪ねてきたのです。
シシリーには「娘の結婚式の日には友人の頼みごとを聞き入れなくてはいけない」という習慣があり、みなこの機をねらってドンに頼みごとをしにやってくるのです。
もちろん皆はドンの権力だけが目当てで群がってくるのではありません。
彼らは心底ドンを尊敬し、自らもまたドンの役に立ちたいと願って友情を示すのです。
世の中はつらいことだけだから、二人の父親が必要
「ミスター・コルレオーネはジョニー・フォンティーンの名付け親(ゴッドファーザー)なのです。
これはつまり、二人がとても親密で宗教的な関係にあることを意味しています。
イタリア人がよく言う冗談に、世の中はつらいことだらけだから、二人の父親に面倒をみてもらわなければ生きていけない、というのがあります。
そんな意味合いから、名付け親というものが生まれたのです」
ジョニーの再起を阻むハリウッドの大物プロデューサー、ウォルツの元を訪れたドンのコンシリオーリ(相談役)ハーゲン。
いかにマフィアの大ボス、ドン・コルレオーネの頼みであろうと、ジョニーを新作映画に出演させるつもりはないと言い張るウォルツに、ハーゲンは上記のように説得します。
それでも首を縦に振らず、ドンを侮辱したウォルツに対し、ハーゲンは部下に命じて彼の高価な愛馬の首を切り落とし、彼のベッドに押し込んで、ドンの威厳を思い知らせるのでした。
ジェンコ・アッバンダンドの死
「ゴッドファーザー」彼が言った。
「ここにいて、私の死を見取ってください。 いや、私のそばにあなたがいるのを見たら、死神も恐れをなして逃げてしまうかもしれない。あなただったら奴に一言言って、追い返すことができるかもしれないんです」
死にかかった男は、最後のほうを半分ふざけた調子でそう言うと、小ばかにしたようにドンに片目をつぶってみせた。「あなたと私は血を分けた兄弟と同じなんです」
そして、ドンを怒らせまいとでもするように、ドンの手を握りしめた。
「どうかここにいて、私の手を握ってください。 これまでやってきたみたいに、二人して奴をやっつけるんです。 ゴッドファーザー、お願いです、私を見捨てないで」
ドンはまわりの人々に部屋を出るよう、身振りで示した。 彼らが去ってしまうと、ドンはその肉の厚い両手の中に、ジェンコ・アッバンダンドの枯れ木のような手を包み込んだ。 そして二人して死を待ち受けながら、彼は優しく友を元気づけていた。
そんなドンの姿は、人間の最もいまわしく罪深い敵の手から、本当にジェンコ・アッバンダンドの生命を奪いもどせるのではないかと思えるほどだった。
かつてドンのコンシリオーリだったジェンコ・アッバンダンド(映画『ゴッドファーザー Part2』では、若かりしドンがジェンコの小売店で働いていたエピソードが描かれています)は、今や体中を癌に冒され、死の床にありました。
娘の結婚式の日にもかかわらず、ドンはかつての盟友の死を見取るために病院を訪れ、死に行く友の側に付き添います。
公開時にはディレクターズカットされましたが、原作の中で最も好きな一場面です。
(現在では、『ゴッドファーザー DVD-BOX』のDVDボーナストラックの未公開映像に収録されています)
最も弱き者が最も強き者に復讐することができる
人生には耐えねばならない侮辱を受ける場合があるが、目をしっかり開いてさえいれば、いつの日か、最も弱き者が最も強き者に復讐することができるという知識を会得していた。
友人すべてが称える謙虚な心を彼が失わずにすんでいるのは、まさにこの知識のおかげなのだった。
良き父親として家族や友人に信頼されるヴィトーは、ファミリーの優れた指導者でもありました。
様々な経験を通じて人を知り、世の中を知ったドンは、その深い知性によってファミリーを導き、守り続けているのです。
十二歳でいっぱしの男になる
ドンは十二歳で、すでにいっぱしの男になっていた。
年が若いにもかかわらず、ヴィトー・コルレオーネは“道理をわきまえた人間”として知られていた。
彼は決しておどしたりしなかった。
彼は常に、相手が牙を引っ込めざるをえなくなるような論理を使った。
また彼は常に、そうすることが相手にとっても利益になることを教え込もうとした。
自分の長所を過小評価する友人を持つ場合を除いては、欠点を過大評価する敵を持つほど自己の人生にとってたくまざる強みとなることはないというのが、ドンの意見であった。
ドン・コルレオーネというマフィアの特徴を一言で表しているのが、『道理』という言葉です。
この『道理』は、若き日のドン・コルレオーネの活躍を描いた映画のPart2にもしばしば登場します。
もちろん、この道理というのは「普遍の真実」ではなく、ドンのエゴイスティックな正論にすぎません。
そして、相手がそれを呑まない時は、「あいつは道理の通じないヤツだ」ということで、血を見ることになるのです。
人生はこんなにも美しい
もう一度息子を見ようと、ドンは非常な努力で目を見開いた。
強い心臓発作が、血色のよいその顔をほとんど白く変えていた。 彼は死のきわにあった。
光の黄色い幕のために目がかすみ、ドンは庭のにおいを吸い込んで、そしてささやいた。
「人生はこんなにも美しい」
ドンの死の場面は、原作と映画ではちょっと違っています。
映画では、庭で孫の遊び相手をするうちに心臓発作に襲われ、孫が人を呼びに行っている間に、誰に見取られることもなく息を引き取ります。
しかし黄昏の光が差す庭の景色や、孫を見つめるドンの優しく穏やかな眼差し、倒れたドンに水鉄砲をかけ続ける孫の無邪気さなど、その“絵”は詩情にあふれ、コッポラ監督の手腕が冴え渡った名場面です。
二倍の料金を要求されるソニー
長男は洗礼名をサンティノといい、父親以外の誰もがソニーと呼んでいた。
体付きは牡牛のようにたくましく、生まれついて頑丈なため、 彼の妻はまるで異教徒が拷問を恐れるように、結婚初夜を恐れたという話が語り草になっていた。
彼が若い頃、売春宿へ行くと、一番強くてこわいもの知らずの女ですら、彼の一物を見たとたん二倍の料金を要求したというまことしやかな噂もあるほどなのだ。
短気で、血の気の多い長男ソニー。
到底、父親のような大物にはなれないタイプにしても、長男らしい力強さと愛情にあふれ、ファミリーのために必死に尽くします。(最後は妹の婿に陥れられ、料金所で蜂巣にされるという非業の死を遂げました)
私が二番目に好きなキャラクターです。
映画ではジェームズ・カーンが演じていましたが(映画『ミザリー』で監禁されていた作家役の俳優さん)、非常に役柄にはまっていました。
オーディションでは、ロバート・デ・ニーロやアル・パチーノも候補にあがっていたようですが、ソニー役もジェームズ・カーン以外には考えられないですね。
ルーシーとソニーの恋
ソニーが自分の鍵でドアを開けて入ってくると、ルーシーは彼のたくましい腕の中に飛び込んでいく。
彼らは常に獣のように直截であり、獣のように粗野であった。
ルーシーはこのような積極的な振る舞いを恥ずかしいものと思っていたが、まもなく彼女は、そういったことが彼を喜ばせ、自分が彼の肉体の完全な虜になっているという事実が、彼を得意に思わせていることに気がついた。
「彼はあたしが愛したただ一人の男よ」と彼女は言った。 「ほかの男は愛せないわ」
ソニーの妹の結婚式で関係して以来、ずっと逢瀬を重ねてきたソニーとルーシー。 粗野で短気なソニーも彼女の前では限りなく優しく、頼もしい男性でした。
原作では、ソニーが死んだ後、ルーシーは自殺を図りますが、寸でのところで助けられます。
上記は、彼女の愛と悲しみを不思議がるファミリーの顧問役に対し、彼女がソニーのことを回想しながら語る言葉。
ソニーはきっとスゴくいい男だったんでしょう。
見るがいい、奴等が殺したわしの息子のこのさまを
「これの母親に、こんな姿を見せたくはないのだ」
彼はテーブルの所に行き、灰色の毛布を引きおろした。
死体処理テーブルの上には、弾丸につぶされたソニー・コルレオーネの顔があった。
ほんの一瞬、ドンは自分の身体を支えようとしてでもするように、ボナッセラの身体に手をかけた。
彼が言った。 「見るがいい、奴等が殺したわしの息子のこのさまを」
個人的な恨みをもつ妹の婿カルロとタッタリア・ファミリーの策にはまり、高速の料金所で蜂の巣にされた長男ソニー。押し殺した怒りと悲しみの中に、自らの宿命を思うドンの気持ちが痛いほど感じられます。
ソニーが銃撃される場面は映画の一つの見所となっており、ソニーの車が料金所で停止した途端、建物の影から十数名の黒づくめの男が姿を現し、一斉にマシンガンを撃ち放すシーンは、当時としては非常にショッキングなものでした。
しかも、男たちは、血だらけになって路上に倒れ込んだソニーの顔をさらに足蹴りにします。(原作では、「これが人間の仕業であることを思い知らすかのように」と説明されています)
だからこそ「血には血を」というマフィアの掟、終盤のマイケルの非情な復讐劇がいっそう心に迫るのでしょう。
独立心の強い息子マイケル
マイケル・コルレオーネはドンの末の息子であり、父親の命令を拒否したただ一人の息子でもあった。
ドンが最も信頼をおく三男マイケル。 マイケルMichelという名前(洗礼名)は、神Godの為に堕天使ルシファー(サタン)と戦った大天使ミカエルを表します。
「父親の命令を拒否した」というエピソードは映画の「Part2」のエピローグに描かれており、このワンシーンゆえに映画『ゴッドファーザー』は永遠の名作となり得た……とも言われているほどです。
「ゴッドファーザー」は、『神』のようなドン・コルレオーネと、彼の息子であるが為に非情な世界に足を踏み入れ、父とは対照的に人間としての道を踏み外してゆくマイケルの堕天の物語でもあり、エピローグ中の「親父の誕生日に、親父を悲しませるようなことをしやがって!」というソニーの言葉(これは原作には無い)が、その後のマイケルの人生を示唆しているように思います。
ファミリービジネスとマイケルの葛藤
彼は自分が意志に反してファミリーの仕事に巻き込まれようとしているのを感じ、たとえ電話を受けるだけにしろ、ソニーが自分を使うことに憤慨していた。
マイケルは、こんな風に考えている自分はあまりに父親に冷たすぎるのではないかと、やましさを感じざるをえなかった。
マイケルが望むのは身を引くこと――自分自身の生涯を過ごすために、これら一切から身を引くことだった。
しかし、危機が去るまでは家族から逃げ出せなかった。
麻薬売買をめぐる対立から、タッタリア・ファミリーに狙撃された父。
その瞬間から、家業を嫌っていたマイケルの運命も大きく変わり始めます。
最初はあくまで父の身を案じる「一人の息子」に過ぎなかったマイケルが、「俺がタッタリアを殺る」と自ら銃を取り、「ドン」への道に踏み込んでいく心の経緯は、原作の方がより深く描かれています。
マイケルの決意とソニーの激励
「だがやっぱりお前はコルレオーネ・ファミリーの人間だった。俺はこの三日間ここで待っていたんだ、おやじが撃たれてからずっと、お前がそのインテリぶった、戦争の英雄といった衣装を脱ぎ捨てるのを待っていたんだ」
「ソニー、僕はこれよりほかに手がないからそうするんだよ」
あくまで平凡な一市民としてケイとの幸せを望む気持ちとファミリーの危機との狭間で葛藤し続けるマイケル。
しかし、敵の追撃が容赦ないと分かると、マイケルは父の為、ファミリーの為に、銃をとることを決意します。
やがて兄ソニーが射殺され、父も心臓発作で息を引き取ると、マイケルはファミリーの長として指揮をとるようになり、やがて冷徹な二代目ドン・コルレオーネとしてファミリーの頂点に君臨するのでした。
古代ローマ皇帝のように
「ドン・マイケル」 そうクレメンツァは言った。ケイは、彼らの臣従の礼を受けているマイケルを見守っていた。
彼はローマの彫像――神から授かった権力によって、臣下に対し絶対の権能を欲しいままにしたあの古代ローマ帝王の彫像を、彼女に思い起こさせた。
片手を腰にあてがい、その横顔は冷たく尊大な力強さにあふれ、後方にわずかにずらした片足に全身の重みをかけて、ゆったりと、傲然とくつろいでいた。
幹部たちは彼の前に控えている。
その瞬間、ケイは、コニーの先ほどの言葉がすべて真実であることを悟った。
彼女は台所に戻り、静かに涙を流した。
映画はこの場面で終わっていますが、原作には、ケイがカトリックの洗礼を受け、血にまみれたマイケルの魂のためにお祈りするエピローグが描かれています。
映画のインパクトがあまりに強いので、原作のこのエピソードは必要ないのでは……と思ったりもしますが、この作品が「神(父)と息子(人間)」というキリスト教精神を背景にしていることを考えると、やはり象徴的な場面なのかもしれません。
ちなみに、Part Ⅱで、腹心の部下だったフランク・ペンタンジェリと弁護士トム・ハーゲンが、ヴィトーの時代を懐かしみ、「まるでローマ帝国のようだった」という台詞は、小説の「古代ローマ帝王」に掛け合わせていると思います。
1998年に初めて書いた映画評のメモ書き
マリオ・プーヅォの原作の魅力は、何と言っても、各キャラクターの心理描写の巧みさにある。
映画では説明しきれない心の微妙な奥襞まで丁寧に描きとり、それぞれが非常にリアルな説得力と躍動感をもって迫ってくるようだ。
また映画ではチョイ役でしかなかったソニーの愛人ルーシー・マンティーニや、ゴッドファーザーの力添えでスターに返り咲いた歌手ジョニー・フォンティーン、またその友人のニノ・バレンティノなどのサイドストーリーも充実しており、映画の何倍も楽しめる。
一ノ瀬直二さんによる骨太な翻訳も素晴らしく、映画に対する理解を深める為にも絶対に外せない秀作。
私も「映画の原作本など大したことないだろう」と舐めてかかっていたのですが、冒頭、娘を陵辱された葬儀屋が、無罪判決を言い渡された町のチンピラに復讐を誓う場面、「ゴッドファーザーに正しい裁きを仰ぎに行こうじゃないか」の一言にしびれ、一気に読破しました。(今読み返しても、すごい言葉だ^_^;)
マフィア同志のやり取りも、フィクションとは思えないほどリアリティがあり、プーヅォの筆力にただただ圧倒されるばかりです。
これを読まずして「ゴッドファーザーのファンです」とは言えないですよ。
初稿:1998年11月