成就の秘訣は『根気・本気・運気』 フジ子・ヘミングの『運命の言葉』より

波瀾万丈の人生で知られるピアニスト、フジ子・ヘミング氏の著書『運命の力(2021年現在『運命の言葉』としてリニューアル)』より、名言をピックアップ。CD紹介やNHKドキュメンタリーで紹介された頃の熱狂について綴っています。

目次 🏃

フジ子・ヘミングについて

フジ子・ヘミングさんは、日本人の母とスウェーデン人の父の間に生まれました。

ピアニストである母からピアノの手ほどきを受け、ヨーロッパで華々しくデビューしようとした矢先、中耳炎で聴力を失います。

夢を絶たれたフジ子さんは、その後、ヨーロッパ各地を転々としながらピアノを弾き続け、母の死を機にようやく日本に帰国した時には30年余りの歳月が経っていました。

それからも細々と演奏活動を続け、質素な暮らしをしておられましたが、1999年、彼女の半生を綴ったNHKドキュメンタリー番組が大反響を呼び、一躍、世界に名を知られるようになりました。

心の底から語りかけるような独特のピアニズムは、現在も多くの聴衆を魅了しています。

日本人ピアニストの母、スウェーデン人の父を持ち、ベルリンで育った著者が歩んだピアニストへの道。デビュー直前に聴覚を失うが、希望を捨てず治療のかたわらコンサート活動を続け、演奏家として名声を得るまでの苦難を綴った自伝的エッセーと心に響く語録集。

フジコ・ヘミング 運命の言葉 (朝日文庫) Kindle版
フジコ・ヘミング 運命の言葉 (朝日文庫) Kindle版

著書『運命の言葉』より

※ 当方が引用している文章は、底本『運命の力(2001年)』に掲載されているものです。

運命は、いつか必ずやってくる

なにかを始めて、これで成功しようなんて思っているときは、ぜんぜん成功しない。
どうしてダメなんだって、ジタバタしながら思う。
それは、自分の才能とは関係がない。
天に運命を支配されているのだと思う。

運命は、誰にも公平。
必ずそうなるように決まっている。
人間の間で決められることではなく、天から運命を与えられる。
一匹の雀の命でさえ、神様に左右されているのだから。

運命は自分の力ではどうすることもできない。一生懸命こちらがやっても、扉は開かない。
だけど自分だけの力では開かない扉が、
ほかからのなんらかの力で「いま!」っていうときが、必ず来る。

そのいまのために、私たちは準備をしておかないといけない。
チャンスを逃さないように。
そのときになって、ああ準備していればよかったなあ、って後悔するかもしれないわ。

それは突然、部屋に強盗が入ってくるのと同じ。
運命もいつやってくるかわからない。

運命とは、小さな出来事の積み重ね。

『ある日突然、扉が開く」のは本当だけど、そこに至るまでに、仕込みは必要。

美味しいワインも、一朝一夕に作られるわけではなく、ブドウの木を育てるところから始まって、何年、何十年の積み重ねがある。

運命の美味しい部分は、一番最後に訪れる、グラス一杯分。

その苦労を見ないで、グラス一杯分だけを追い求めるから、「何も収穫できない」と人生に失望する。

運命の扉を開くには、開くだけの力を身に付けないとね。

何かにつけて目立ったけど、それが芸術家には大事なこと

留学していた当時、ドイツ人の学生のなかでピアノを上手に弾ける人なんてひとりもいなかったから、妬まれて意地悪をされた。なにかにつけて私は目立ったけど、だけど、それが芸術家にとって最高に大事なことだと思っていた。

ドイツ語では「アパルト」っていうのよ。日本語で、アパートに住む、というのと同じ。一つの広間に人がいっぱいいるんじゃなくて、そこからは区別された存在でほかの人と全然違う風に見える。それが「アパルト」。

ほかのひとは別に、平穏無事、人並みでいることを望んでいればいいんじゃない。私はそういうの好きじゃないから。
苦悩の日々だったけれど、必ず自分の音楽にこれが表れると思い続けていた。

小学生の頃、学校の帰りに近所の子供達から「異人、異人」と石をぶつけられた。そのときのひがみはあるかもしれないけど、私は人と違う方がいいと思った。芸術家は人と違うことが大切だと、ヨーロッパで教えられた。

竹宮恵子の名作漫画『風と木の詩』にも、「自尊心がなければ、人はいい意味で才能を発揮できない」みたいな台詞があるが、本当にその通りで、「人と違う自分」に自信がもてなければ、何も無いのと同じことだろう。

同調圧力が強い社会では、人と違うことは時に命取りだが、仲間はずれの恐怖や孤独感を乗り越えて、自分のやり方を貫いた人が才能を開花させる。

才能とは強さ。

自分を信じる力。

人間として出来ることをやる

聖書にこんな言葉がある。
「たった一匹の雀でさえ、神の思し召しなしに、この地上に落ちて息絶えることはない。まして人間は……」
ちっぽけなものでさえ神の思し召しなしには、この世に在ることはできない、ということ。

ただ毎日食べて、寝て、お金を儲けるだけじゃなくて、人生にはやるべきことが別にあると思うの。まわりのものに愛情を与えるとか、必ずその人にできることがあるはずなのよ。そうしてはじめて天国に行ける。それをみんな知らない。自分に利益を求めることばかり考えている人が多すぎる。

私の人生にとっていちばん大切なことは、小さな命に対する愛情や行為を最優先させることだと思っている。自分の命は自分のためだけにあると思ったら大間違い。自分より困っている誰かを助けたり、たとえ野良猫一匹の命でも人はそれを救うために、命を授かっていると信じている。

今はSNS全盛期ということもあり、目に見える成功を追い求める人が多いが、それ以前に、身の回りの人を大事にしたり、日々の仕事を確実にこなしたり、玄関を掃除したり、花に水をやったり、やるべき事はたくさんある。それらを蔑ろにして、大きなことを望んでも、決して上手くいかない。

本当に大事なことは、地味で目立たないもの。

だから、無くしやすいし、無くしても気付かない。

植物に喩えたら、根っこを失うようなもの。

根っこの枯れた花は育たない。

そして、花だけでは、やがて萎れて、終ってしまう。

だが、根っこが残っていれば、来年もまた咲かせることができる。

なにもこわいものはなかった。正直にやれば大丈夫だと思っていた

正直にやっていれば、この世の中、必ず報われるって信じていた。
私だって、一から百まで正直に言っているわけじゃないけれど。
だけど世間には二つしか持っていないのを、八つに見せるような人が多いじゃない。

そうやって世の中を渡っていたら、終いには堕ちるわよ。英語にもあるじゃない「正直ものは必ず成功する」っていう言葉が。
真実は必ず勝つってね……。

いちばん悪いのは、相手をおとしめようとして嘘をついたりすること。そうすると負けるのよ。
なにもこわいものはなかった。
正直にやっていれば必ず大丈夫だって思っていた。

今の時代、嘘はすぐにバレるし、身元を特定されるのも早い。

元同級生、元同僚、元彼氏、元従業員。

アカウントの数だけ、人の口も存在する。

そんな中、どれほど表面を取り繕っても、嘘はすぐにばれる。

正直で損するより、嘘がバレた時のコストの方がはるかに高くつく。

映画『ムーラン』で、「嘘は人間を弱くする」という台詞があるが、本当にその通り。

嘘をついている人間は、どこか卑屈で、おどおどして、やたら攻撃的。

失意のどん底を救ってくれたのは猫だった

バーンスタインのおかげでウィーンでリサイタルを開けるようになったのに、その直後に風邪をこじらせて音が全く聞こえなくなってしまった。初日は弾いてみたものの満足な結果などだせるわけもなく、惨憺たる結末に終わった。

一流のピアニストになる夢は、砕け散った。もう終わりだと思った。私はなにも、悪いことをしていないのにと、どれほど呪ったか。

それからの日々は、ひとり部屋で泣く日も多かった。失意のどん底にある私を救ってくれたのは、猫だった。猫だけが、心の拠り所だった。

猫は純粋。決して人を裏切らない。人間みたいに陰険にヒソヒソとすることもしない。だから、一日中猫に話しかけていた。悲しいことも、楽しいことも、なんでも耳をかたむけて聞いてくれた。

当時、ピアノを教えていたからわずかな収入はあったけれど、お金を数えながらの毎日で、生活は楽ではなかった。それでも、自分の食べるものは我慢してでも、猫にごはんをあげた。生きる勇気を与え、いつも励ましてくれた猫の存在があっての、私だったから。

ファンレターに「あなたのピアノを聴くと泣けてくる」と書いてくる人がいる。この人たちはまだ涙が残っているんだ!なんて思う。私なんか泣きすぎて、一粒だってでてこない。涙が枯れちゃった。最近は猫が死んでも、一滴の涙もでないくらいよ。

私も猫好きなので、フジ子さんの気持ちはよく分かります。

人生なんて人に相談しても仕方がないことが多い

辛いことがあっても、私は負けなかった。いつかは、この状況から抜け出せる日が来ると信じていたから。だから不幸だって思ったことはないのよ。ドイツの黒パンと紅茶があれば、私は幸せだった。

電話も引けないくらいに貧乏だったけど、知り合いや友だちに愚痴った覚えもない。
人生なんて、人に相談しても仕方がないことが多い。

どうにみおやるせないとき、私はカフェで隣に座った見知らぬ人に愚痴っていた。ドイツ人って、人なつこいところがあるから、知らないもの同士でもよく話すのよ。そうすると「ふんふん」って黙って聞いてくれる。話すだけ話すと、けっこうさっぱりした。

この言葉へのコメントは下記のエッセーに記載しています。
人生なんて相談しても仕方がないことが多い

人生はうまくいかないことのほうが、あたりまえ

ウィーンに住んでいた当時、日本から売り出し中のピアニストがやって来ていた。有名な指揮者との共演や演奏会ができるのは、音楽会社や鉱業会社など、大きな力の後押しがあってこそ実現できる。

私を認めて勇気をつけてくれた人は、みんな純粋でいい人ばかりだった。でも「じゃあ、どうすればいいの」って訊くと答えられない。言ってくれる人も貧乏で、なにもできなかったから。

ドイツでは才能よりもよっぽどのコネがないと、有名になることはおろか認められることも難しい。私には、そんなコネも後押ししてくれる力もなかった。

才能だけで、有名になろうなんてことはできない。人生はうまくいかないことのほうが、あたりまえ。でも、あきらめなかった。チャンスは、必ずめぐってくると、信じていたから。

人生が上手くいかなくても、望みが叶わなくても、人として良く生きることはできると思う。

だから、嘘をついたり、見栄をはったり、人して間違ったことは止めた方がいい。

何故なら、成功が手に入っても、愛と尊敬はなくすから。

大きな成功は収められなくても、愛と尊敬を得れば、幸せになれるから。

フジ子・ヘミング 運命の力

【コラム】 成就の秘訣は『根気・本気・運気』 

中尊寺ゆつこさんの四コマ漫画『この人を見よ』に、こんな紹介文がある。

何故みんなフジ子に感動するのか。フジ子がピアノしかやっていないからだ。ピア ノ以外のほんの少しのことがあるとすればとても不器用。私たちは日々、ネットワ ークだ、パソコンだ、テレビだ、人間関係だ、人付き合いだ、買物だ、ブランドだ …など、本来の仕事には直接関係ないことにマルチに時間と労力を膨大に使う。もちろんそれも大切なのだが、フジ子の場合、時間とエネルギーの使い方はピアノを 弾く=95%、猫に餌をやる=3%、その他=2%くらいかな。

そこまで何かに熱中している何かの専門家はもちろんいるとは思う。しかしフジ子 は欲も家族もなく、その運命や生きてきた年齢、国籍なども考えるとやはり壮絶なものがある。フジ子・ヘミング、時代を越えて、芸術を手段として、私たちに大切 なものを訴えかけてくれる。

ウェブサイト『会社生活の友』(現在、このリンクは削除されています)

中尊寺氏の言葉通り、本当に幸せな人生、充実した人生というのは、その他一切に依らず、「それだけやっていれば幸せ」という心の状態だと思う。

趣味にしても、仕事にしても、「もっとお金が貯まれば」「ついでに旅行も行ければ」と、どんどん欲望も膨らんで、本業からかけ離れたところで消耗しがちだからだ。

上を向いても、横を向いても、いいなと思うものはキリがなく、「もう少し手を伸ばせば、手に入るのではないか」と欲望を刺激される。

本来、10で足りるものを、20、30と欲しがれば、いずれキャパシティをオーバーするのは必然で、それが手に入らなかった時の疲労感や不幸感もいっそう増大するのではないだろうか。

誰だって、家も欲しいし、地位も欲しい。

皆が羨むような人生を送りたいと思う。

だが、それ以前に、自分は本当は何がしたいのか、何が手に入れば満足なのか。そこを見失わないことが肝心だろう。

フジ子さんも、人生の途中で、中途半端に成功し、中途半端に欲しいものが手に入っていれば、これほど世間の注目を浴びたかどうかは分からない。

もしかしたら、ステージに立つことはできても、「あまたのピアニストの一人」として終わっていた可能性もある。

数々の不運に見舞われ、メインストリームから遠く離れた所で黙々と研鑽を積んだからこそ、今日の栄光があるのではないだろうか。

物事が成就するには、『根気・本気・運気』が絶対不可欠だ。

本気になっても、根気がなければ続かないし、根気があっても、運気がなければ、チャンスは巡ってこない。

また、運に恵まれても、根気がなければ何事も成せないし、根気をもつには、小さな事にも本気になれるものが要る。

「ピアノが弾けたらそれでいい」という人生は、地味に見えるかもしれないが、実はこれほど恵まれた人生はなく、多くの場合は、経済的、身体的、様々な理由から、「ピアノを弾きたくても、弾けない」という状況に追い込まれて、途中で終わってしまう。

フジ子さんにしても、ヨーロッパであれほど苦労されたにもかかわらず、「ピアノが弾ける生活を維持することができた」というのは、実は非常に幸運で、それゆえに、自らの天運を信じ抜くことができたのではないだろうか。

人それぞれ、どんな運が巡ってくるかは分からない。

一見、幸運に見えたことが、数年後には不幸な結果に終わることもあるし、乗り損ねたバスが数時間後には電柱に激突することもある。

いつ、どんな運が巡ってこようと、一番大事なのは、「自分は何ができれば幸せなのか」という問いかけだ。

それを忘れて、あれもこれもと欲を出した時、本来自分がもっていた天運にも見放され、悔いと徒労感だけが残るのではないだろうか。

関連する記事

フジ子・ヘミング氏に対する玄人筋からの批判をモチーフとした音楽評論と業界に関する小話です。

プロ VS 素人 権威主義・商業主義を生みだす背景

あわせて読みたい
プロ VS 素人 権威主義・商業主義を生みだす背景 | Novella どこの世界にも異端視される人はいますが、ピアニストのフジ子・ヘミング女史は、その最たるものでしょう。…

『正直に生きる』ことの大切さ

『何もこわいものなどなかった。正直にやっていれば、必ず大丈夫だと思っていた』

日本人の母とスウェーデン人の父の間に生まれたフジ子さんは、母からピアノの手ほどきを受け、ヨーロッパで一流ピアニストとして華々しくデビューしようとした矢先、中耳炎で聴覚を失います。

夢を断たれたフジ子さんは、その後、ヨーロッパ各地を転々としながらピアノを弾き続け、母の死を機にようやく日本に帰国した時には三十年余の歳月が経っていました。

それからも細々と演奏活動を続けておられたフジ子さんですが、1999年、彼女の半生を綴ったNHKドキュメンタリー番組が大反響を呼び、一躍、国民的ピアニストになりました。

その魂から語りかけるようなピアニズムは、今や世界中が認めるところとなってします。

そんなフジ子さんが、孤独や貧困と闘いながら、ヨーロッパで演奏活動を続けておられた時、いつも自分自身に言い聞かせていたという言葉が「正直にやっていれば、必ず大丈夫だと思っていた」。

「正直」なんて、今時、流行りませんが、フジ子さんの言葉にはずっしりとした重みを感じます。

人間は、苦しい時、思うように行かない時、どうしても安易な方策に走りがちですが、そういう時こそ、正直の力を信じて、一歩一歩着実に歩みを進めた方が良いのではないでしょうか。

私が帰国していた頃、日本は、鶏インフルエンザ問題で揺れに揺れていました。

京都の養鶏業者が報告遅延によって被害を拡大し、連日のようにワイドショーで取り上げられていたのです。

メディアの激しい質問攻めに、「この経営者、自殺するんじゃないか」と思っていたら、数日後、会長夫妻が「ご迷惑をおかけしました」という遺書を残して自死

それから程なく、会長指示による隠蔽工作の事実が明るみになり、息子である社長が逮捕されました。

何ともやりきれない結末に、私はフジ子さんの言葉、「正直にやってさえいれば」を痛感せずにいませんでした。

鶏インフルエンザが発生した時点で、しかるべき機関に報告していれば、こんな騒動にならずに済んだからです。

確かに、鶏インフルエンザの問題は、全国の養鶏所にとって死活問題だと思います。

非難や噂ばかりが一人歩きし、肝心な業者の保障についてはなおざりにされていましたから、京都の養鶏業者が問題の発覚を恐れて隠蔽工作に走った理由も分からなくもありません。

責め立てる前に、被害を出してしまった業者の経済的・社会的保障についてきっちり討議しておれば、京都の養鶏業者も違う手立てがあったのではないでしょうか。

多くの場合、不正は隠し通せるものではないし、関係者も黙ってはいません。

何としても不正を隠し通そうと、無理に無理を重ねることで、かえって罪過を大きくするものです。

正直にやれば、経済的には損失を被るかもしれませんが、犯罪者の烙印を押されるような、人間としての不幸は避けられるのではないでしょうか。

「正直者はバカを見る」の言葉通り、仕事でも、恋愛でも、何でも真面目にコツコツやっていたら、時間はかかるし、損に感じることも多いです。

そんな時、他人が狡く立ち回って、成功した話を聞けば、真似したくもなりますが、安易に横道に逸れれば、いつかそれ以上のものを失うのではないでしょうか。

聴覚を失ったことで、デビューの機会を失い、三十年もあちこちを転々としながら、細々と演奏を続けてこられたフジ子さん。

著書の中でも、「わたしには、そうした機会は永遠にないものと思っていた」と、当時の気持ちを振り返っておられます。

異国で、お金もなく、頼る人もなく、不安に胸が潰れそうになった時も、正直な生き方を貫き、三十年以上の歳月を経て、見事に花開きました。

もし、フジ子さんが不安に負けて、嘘をついたり、投げ出したりすれば、現在の成功はなかったでしょう。

誰の人生にも苦境は訪れますが、そんな時こそ、自分に誇りをもって、「正直であること」を心掛けたいもの。

正直とは、間違いのない道であり、己の矜持を貫くことです。

2003年11月24日の記事です

CDとSpotifyの紹介

CD『奇蹟のカンパネラ』

NHKドキュメンタリーで感銘を受けた後、すぐにCDを買いに走った人も少なくないのではないか。

日頃、低調なクラシック界においても異例のヒットとなり、TVでも連日のようにフジ子さんの弾く『ラ・カンパネラ』が流れていた。

時代は、1999年。

バブルが弾け、社会はリストラの嵐。

90年代半ばには、阪神大震災、新興宗教テロ事件と、不幸も相次ぎ、誰もが疲労していた。

そんな中、どん底から這い上がってきたフジ子・ヘミングさんの物語は、独特のピアノの音色と相成って、全国民の心を鷲づかみにした。

バブルの熱狂などで、長い間、忘れていた、苦難、忍耐、努力、生き甲斐といったものを思い出させてくれたからだ。

現在も聴覚低下があり、それは通に言わせれば、完璧な演奏ではないかもしれないが、フジ子さん自身が言っておられる「今にも壊れそうなラ・カンパネラがあってもいいじゃない」の言葉通り、音楽と名演は、もっと別のような気がする。

波瀾に富んだ人生がTVで紹介されるやいなや、それまでまったく無名だったベテラン・ピアニストの境遇は一変した。放送と時期を合わせて発売されたこのデビューCDは飛ぶように売れ、コンサートの切符はあっという間に売り切れた。そして、気がついてみれば日本のクラシック音楽界に遅咲きのスターが1人誕生していたのだ。
そのピアニスト、フジ子・ヘミングの演奏を聴いて気がつくことのひとつは、聴き手を疲れさせない音楽であるということ。テクニックをひけらかすように猛スピードで突進することはない。音の強弱をやたらに強調することもない。過度な自己陶酔を押しつけてこない。文章にたとえるとすれば、難しい漢字や熟語を使わずに、わかりやすく自分の思うところを述べた口語文とでもいったところか。それでいて、人の心をつかむ技は十分心得ている。音色はあたたかく、かすかにコケットリーを含んでいる。だから耳にやさしい。
タイトル曲になっている「ラ・カンパネラ」では、高音をきれいに響かせて、いかにも鐘の音が遠くからきこえてくるような雰囲気を出す。本来、名人芸を披露するには絶好の曲だが、彼女は決してその誘いに乗ろうとせず、ゆったりと構えている。そのおだやかな演奏が、少しレトロで「和み系」の演奏が、ギスギスしがちなわれわれの心にふっと触れてくる。「フジ子・ヘミングに癒される」という人が多いのはもっともだろう。(松本泰樹)

奇蹟のカンパネラ
奇蹟のカンパネラ

Spotify

上記のアルバムとは異なりますが、代表曲が収録されています。

誰かにこっそり教えたい 👂
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次 🏃