ニーチェの『悦ばしき知識』(「喜ばしき知恵」)は、究極の生の肯定を描いた『ツァラトゥストラ』の前段階にあたる著書で、「これが生だったのか、よし、それならもう一度」という永劫回帰に向かう思想の助走にあたる作品です。
ニーチェの著書は、いずれも思想の断片を集めたアンソロジー的なもので、分かりやすい金言もあれば、抽象的で、意味が分かりにくい部分もあり、初心者には戸惑うところです。
しかしながら、人生に対する肯定的な姿勢は、現代人にも通じるところがあり、とりわけ「人生の半ばにおいて、人生は私を失望させはしなかったはわたしを失望させはしなかった」の一文は、突き抜けるような悦びを感じるのではないでしょうか。
以下、『悦ばしき知識』(ちくま文庫)訳者・信太正三氏による解説。
執筆の背景
本書『悦ばしき知識』(Die fruhiliche Wissenschaft)は、ニーチェの著作順序からすれば、『曙光』(1880~82年)と『ツァラトゥストラ』(1883~85年)との間に位する重要な作品である。「神の死」にまつわるニヒリズム、「永劫回帰」の最初の定式化、ツァラトゥストラの登場等、ニーチェの根本思想の幾つかが、この書で明確に姿をあらわしてくる。
しかも、いわゆる『権力への意志』と称される「八十年代遺稿」の書きはじめられたのが、本書の「第四書」までの部分が完成する1882年頃からである点からしても、ニーチェの円熟期の思想圏は本書から形成されはじめたと考えてもいいであろう。
さらに、本書中の「第五書」すなわち「われら怖れを知らぬ者」は、『ツァラトゥストラ』の完成の翌年、『善悪の彼岸』の完成した年に、つまり1886年の秋に脱稿されたものであるから、全体としての本書の位置は、すでにニーチェの思想の絶頂期に入れられるべきものと見ても差し支えないであろう。
《中略》
本書は、その成立事情からしてすでに明らかなごとく、第二期末から終期にまたがるものであり、いわばその移行過程の思想内容が主として盛りあげられる。そしてそれが、完成期の思想圏へと引き入れられ止揚されてゆくのである。
本書の第四書までは、これに先立つ『曙光』の続稿として書かれている間に独立したものとなったのであるため、その中心は『曙光』と同じく主として道徳的偏見に対する闘いにおかれているし、近代文化やその諸観念あるいはドイツ国家や大衆的社会状況等に対する批判的構想のモチーブに貫かれている。 その間に、彼の形而上学的あるいは認識論的な見解が点綴されていて、次第に自己自身の「新しい哲学」を肯定的に語り出す方向へと導かれてゆく。
第五書はこの方向を受け止めた形で補われたような節が見られる。 そして、全体として『ツァラトゥストラ』や『善悪の彼岸』あるいは『権力への意志』へと読者の理解をつなぐ踏台の役割を、果たしている。もちろん第五書は、後から加えられたものである点で、前四書とはいくらか調子がちがっているのが感じられよう。 本書は、ニーチェの重大な精神的転換期が懐胎し生み落とした思想上の子供であり、彼の魂の危機の記念碑でもある。この点を幾らか省みておくことが、本書を内面から理解する助けとなるであろう。
『悦ばしき知識』 信太正三 巻末の解説より
『悦ばしき知識』の名言
二六八 英雄的にさせるのは何か? ――自分の最高の苦悩と最高の希望とに向かって同時に突き進んでゆくことがそれだ。
二七〇 お前の良心は何を告げるか? ――「おまえは、おまえの在るところのものと成れ」
二七三 お前は誰をば悪と呼ぶか? ――いつもひとを辱めようとする者を。
二七四 お前にとって最も人間的なことは何か。――誰をも恥ずかしい思いにさせないこと。
二七五 体現された自由の印は何か? ――もはや自分自身に恥じないこと
人生とは認識の一手段なり
社会が斜陽に向かい、人々の心が不安定になると、ニーチェがよく読まれる……という話を聞いたことがあります。
どんな人も――とりわけ若い人は――調子のいい時は絶望も虚しさも感じませんが、社会から勢いが失せ、暗雲が立ちこめると、誰もが自信を無くして、本物の光を求め始めるからでしょう。
そんな中、偉大なる肯定者、ニーチェの言葉が求められるのも分かるような気がします。
自分と世界への肯定をなくして、人は生きられないからです。
人生の半ばにおいて(In media vita)
いな! 人生は私を失望させはしなかった!
それどころか、私には、歳を重ねるにつれて人生は――
そう豊かな、――そう好ましい、
いよいよ神秘に充ちたものに感じられる。それは、あの偉大な解放者が、つまり、人生は認識者にとって1個の実験でありうる――
義務でもなく・宿命でもなく・虚妄でもなくして――というあの思想が、私に訪れたあの日以来のことだ!そして、認識そのものは、よしそれが他の人たちにとっては たとえば安楽椅子だとか……
安楽椅子まで辿り着く道だとか……
慰みごとだとか……
無為無精だとか……
いった何か別なものであるとしても――
私にとって認識そのものは、英雄的感情でさえ そこをそれ自身の舞踏場とし 戦場とすることのできる危険と勝利との世界なのだ。「人生は認識の一手段なり」
この原則を抱擁するわれわれは、ただに勇猛であるだけでなく、悦ばしく生き 悦ばしく笑うことすらできるのだ!
何はさておきまずもって戦闘と勝利の道に通暁する者でなければ、そもそも誰が一体良く笑い良く生きるすべを解しえようぞ!
「認識の一手段」というのは、何かを会得する為の手立て、あるいはその過程と解釈すると分かりやすいです。
たとえば、「生とは何か」を実感するにも、まずは生まれてみないと分からないし、「人生とは何か」を悟るにも、己が生を真っ当しなければ見えてきません。
確かな目的があって、誕生や人生があるのではなく、「生きているうちに、分かってくる」が正解。
ゲーテも同じ事を言ってますね。「『生き続けて行け。きっとわかって来るだろう』 ゲーテの格言より」
現代において、ニーチェはどう読むべきか
世界は意思の表象 ~締め切り大堤防の建設とコルネリス・レリーの偉業にも書いていますが、現代においては、ニーチェのような考え方も一般化していると思います。
言い回しが違うだけで、伝えたいことは、みな同じ。
古典として読むと、難しく感じますが、要は『よりよく生きよう』『幸も不幸も、あなたの心次第』みたいな話です。
現代と大きく異なるのは、ニーチェの時代にはまだまだカトリックの影響が根強く、「肉体の声に耳を傾け、自分に素直に生きる D・H・ロレンスの名作 『チャタレイ夫人の恋人』みたいな生き方は許されませんでした。
だからこそ、自分の頭で考え、己に正直に生きよ、というニーチェの考えが感銘を与えたのかもしれません。
では、現代において、ニーチェをどのように読めばいいのか……という話になると、仲好く肩を抱くような気持ちでいいと思います。
同じ石に躓き、苦しみ抜いた経験は、現代も、ニーチェの時代も同じです。
その果てに、「これが生だったのか。よし! それならもう一度」の気持ちが訪れ、この人生をもう一度、生きてもいい、と思う。
現代の癒し系とは言い回しが異なるだけで、真理は同じです。
難しく構える必要はなく、「なんだ、ニーチェ、お前も同じか」ぐらいの気持ちで親しむのが一番ではないでしょうか。
書籍案内
明るく華やかな南フランス・プロヴァンス文化のトルヴァドゥール的情趣と共感しあい、ニーチェの思想の光と影が多彩に明滅する哲学的アフォリズム・詩唱群。神の死に関するニヒリズム、永遠回帰思想の最初の定式化、ツァラトゥストラの登場など、ニーチェの根本思想の核心が明確な姿を現わしてくる重要な作品である。重大な精神的転換期にあった哲学者の魂の危機の記念碑。
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