ドイツの哲学者、ショーペンハウワーのたとえ話に、「ヤマアラシのジレンマ」というものがある。
これは、二匹のヤマアラシがお互いを温め合おうとして、近く寄り添うのだけれど、お互いの針で傷つけ合って、上手く抱き合うことができない。そうして、くっついたり、離れたりしながら、やがてお互いに適切な距離を見出す――という、たとえ話だ。
これは親子にも当てはまるのではないか。
たとえば、子供はママにもっと構って欲しくて、ペタっとくっついてくるけれど、ママも虫の居所によっては態度が悪かったり、自分の事で精一杯だったりして、いつもいつも「優しいママ」であるとは限らない。
子供は、ママの「イライラ」や「自分勝手」の針に刺されて遠ざかり、しばらくは寄り添うことをあきらめるのだけれど、やっぱり温めて欲しくて、近くに寄ってくる。
その繰り返し。
ママはママで、もっと子供のことを理解したい、大切にしたいと思い、手を差し伸べるのだけど、それは子供の望みとは全く違っていたり、子供も自分の感情を上手く表現できなくて、つい「ママなんか嫌い」光線を発射してしまう。
それでママは子供が分からなくなり、逃げたり、あきらめたりするけれど、やっぱり気になって、また寄り添っていく。
その繰り返し。
育児書などを見ていると、「ママと子供はいつでも仲良くなければならない」という主義主張に凝り固まっていて、ヤマアラシの針をも越えろと言わんばかりだ。仲良しの重要性は理解できるが、やはり一人と一人の人間同士(たとえ相手が子供であっても)、いつも晴れやかな気分でマッチするとも思えない。
人間である以上、齟齬を起こしたり、傷つけ合うのは避けられないわけで、だからこそ、育まれる知恵や思いやりもある。
上辺だけでない、本物の人間関係を築いていく上で、自我の衝突や感情の摩擦は必要不可欠だろうし、親子関係に限っては「例外」ということもないだろう。
「子育て」という言葉のトリックに惑わされて、その本質をしばしば見失いがちだけど、私たちが「子育て」と呼んでいるものも「人間関係の確立」に他ならない。
旦那とはしょっちゅう口喧嘩しているくせに、こと相手が「子供」となると、必要以上に自分を責めたり、落ち込んだり、自分の母親としての能力を疑ってしまうのは、多分、「子育て」=「相手より優れていなければならない、導かねばならない」といった、親としての優位性を重視しし過ぎるからではないだろうか。
そうではなく、親子も「人間関係なのだ」と思えば、また違った局面が見えてくる。
私たちは、子供同士がゴネるみたいに、もっとゴチャゴチャやり合っても構わないんだ、と。
人生は長い。子供の人生は、もっともっと長い。
今日一日、激しくやり合っても、また明日、一からやり直すチャンスがある。
そんな余裕を持って、接していきたいと思う。
初出 2005年12月11日