作品の概要
変身 (1912年) ・・ Die Verwandlung
作者 : フランツ・カフカ(チェコ・プラハ市)
あらすじ
平凡な会社員、グレーゴル・ザムザは、朝目覚めると巨大な毒虫に変身していた。
自室から出てこないグレーゴルを心配して、家族や会社の支配人らがドア越しに声をかけるが、虫と化したグレーゴルは人間の言葉で返事をすることもできず、やむなく家族の前に姿をさらすと、母は嘆き悲しむが、父には疎まれ、再び、自室に追い立てられる。
妹のグレーテが食事を差し入れて世話するが、ある日、部屋の片付けをめぐって、グレーゴルが再び家族の前に姿を現すと、父がグレーゴルにリンゴを投げつけ、それが身体にめりこんだことで、グレーゴルは重傷を負う。
一人、自室に取り残されたグレーゴルと家族の運命は……。
見どころ
一見、青年が虫に変身するファンタジーに見えるが、見方を変えれば、「毒虫のような自分」に例えた家族ドラマとも読める。
つまり、実際に毒虫になったわけではなく、「毒虫みたいな存在になった」と自分自身で思い込んでいるのである。
毒虫はあくまで比喩で、昔から家族に疎まれていた息子が、何かをきっかけに自己嫌悪感を深め、家族に無視されるうちに絶命する物語である。
本作の見どころは、様々に解釈できる点で、「本当に毒虫になった」とストレートに読んでもいいし、上記のように例え話として、別の物語を楽しんでもいい。
カフカ自身は、本作を「駄作」と見なしており、「とても読めたものではない結末、ほとんど細部にいたるまで不完全だ。出張によって妨げられなかったら、もっといいものができていたであろう(日記)」と嘆いていたようだが、間違いなく近代文学の傑作であり、古典でありながら、ファンタジーのように一気に読めるのも有り難い。(訳者の功績)
個人的には、『城』や『審判』より、はるかに読みやすい短編なので、カフカに興味のない人も、これだけは読んでおけと思う。
筆者は新潮社の高橋訳を所有しているが、原田義人・訳(青空文庫)が無料で読めるので、まずは中身を確認したい人は、Kindle版をおすすめする。
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なお、本作は、映画化もされており、amazonプライムで視聴できる。
ただ評価は芳しくないので、どうしてもビジュアルで確認したい方のみどうぞ。
私も見ていません。
低評価をつけているのは、小説に思い入れのある人です(^_^;
グレーゴル・ザムザは本当に『虫』になったのか?
フランツ・カフカの『変身』は、とことんリアルで、同情も、救済も、一切排除した、本音の世界だ。
設定こそ非現実的だが、憎悪する父親、動揺するだけの母(直接息子を助けようとしない)、冷めた妹、同情のかけらもない会社の支配人、等々。
酷薄というよりは、人間の本性を生々しく描き出している。
醜怪な虫となり、命の危険に晒されているグレーゴルに、親身に手を差し伸べ、真剣に助けようという人物は誰もいない。
父親も、妹も、多少は息子思いの母親も、しまいには疲れ果て、虫(グレーゴル)の消滅を願うようになる。
だから薄情というわけではなく、一般の家庭とはそんなものである。
各々、仕事や家事に忙しく、病んだ子供のことなど構っていられない。
ハリウッドのファミリードラマのように、家族が手を取り合い、涙を流し……というのは、作られたストーリーで、どこの家庭も似たり寄ったりではないだろうか。
先にも述べたように、『虫になっていた』というのは、あくまで比喩で、以前から、毒虫みたいに疎ましい息子だったのかもしれない。
家族から邪険にされる現実に対して、「自分は虫になった」と思い込み、無視や虐待の過程をファンタジー風に描いたという読み方もできる。
何にせよ、家族の平凡な日常からはみ出た男は、一家の権威にリンゴを投げつけられて、絶命する。
だが、誰一人、嘆き悲しんだりしない。
むしろ、せいせいしたように、一家の未来について語り始める。
なぜ家族の胸は痛まないのか。
それが本音だからである。
解説
以下、高橋訳を元に、見どころを解説。
病気になっても、通勤の心配
朝目覚めると、グレーゴル・ザムザは巨大な虫に変身していた。ベッドから出ようにも出られず、人間の言葉を話すこともできない。
だが、慌てるどころか、仕事をどうしよう、汽車の時間をどうしようと、どうでもいい仕事のことで悩む。
やがて支配人が様子を見にやって来ても、助けを求めるどころか、必死に遅刻の弁明を考える、哀しきサラリーマンだ。
「七時十五分までには、なにがなんでも寝床を出ていなくちゃならない。それまでにはどのみち、おれのことを聞きに店からだれかやってくるだろう。店を開けるのは七時前なんだから」こうして彼は体ぜんたいを完全に平均にわきのほうへ揺すりながらずらして、寝台から出る作業にとりかかった。
≪中略≫
そのとき、玄関のベルが鳴った。「店からだれかやってきたな」と思うと、体が硬直するような気がした。ところが足どもはいっそうせわしなくぱたぱた動きはじめた。
≪中略≫
なんと支配人であった。いったいどうしておれだけが、ちょっとさぼったぐらいでたちまちひどい嫌疑をかけられるような商会に勤めるという因果なまわりあわせになったのだろう。一体全体サラリーマンというサラリーマンはだれも彼もやくざなごろつきだというのか。
≪中略≫
支配人さん、どうか親たちにがみがみおっしゃらないでください。いまいろいろとわたしをお責めになったけれど、みんな見当はずれです。だってだれにもまだそういうことは言われなかったんですから。このあいだわたしがお送りしておいた注文書をまだ見ていらっしゃらないんじゃないでしょうか。とにかく八時の汽車で発ちます。二、三時間休んだんで元気になりました。どうか、支配人さん、おひきとりください。すぐ仕事にとりかかりますから。それからすみませんが、どうか社長にそのことをよろしくお伝えください。お願いします」
サラリーマンの通勤は、人生の反復運動だ。
毎日、同じ電車に乗り、同じ道を通って、同じ業務を繰り返す。
地震が起きても、台風が来ても、親が死んでも、自分自身が病気になっても、朝、目覚めたら、まず一番に通勤の心配をし、いつもと異なる段取りを脳裏に巡らせ、会社への言い訳を考える。
グレーゴルも虫になったにもかかわらず、仕事に出掛けようとしたり、サラリーマン人生を振り返ったり。
よく「日常に埋没する」と云うが、それは忙しさのせいというより、変化の無さに起因する。
あまりにも毎日、同じことを繰り返すので、それ以外のことが出来なくなってしまうのだ。
一番大変なのはグレーゴルなのに、周りに迷惑をかけることを何より怖れるのも滑稽である。
だが、日本の勤め人も全く同じではないだろうか。
父を怖れる息子
(父親は)足を踏みならし踏みならし、ステッキと新聞紙とを振りふりしてグレーゴルをもとの部屋に追いもどそうとしはじめた。いくら頼んでもむだだったし、頼む言葉は理解されもしなかった。
≪中略≫
父親は情け容赦なく、まるで野蛮人みたいにしっしっと言いながらグレーゴルを追い立てようとする。だがグレーゴルはまだあとしざりの練習をぜんぜんしていなかっし、また事実それは非常に緩慢にしか行われなかった。方向転換がやれさえしたら、苦もなくもとの部屋にもどることになったのであろうが、向きを変えるのに手間どって父親をかっとさせたくはなかった。
≪中略≫
そういうわけで、たえず父親のほうをおそるおそるうかがい見ながら、彼はできるだけ迅速に、といっても実際にはひどくのろのろと方向転換をしはじめた。父親にも息子の健気な意志がそれと察せられたらしく、こんどは息子のしぐさの妨げをせず、逆に必要に応じてステッキの先で遠くのほうからあれこれと指図してくれた。しっしっという知ったの声さえなかったらどんなによかったであろう。その声を聞くとグレーゴルは実際おろおろしてしまうのであった。
本作では、『父親』が重要な意味をもつ。
カフカ自身の父親を投影したとも言われる、「グレーゴルの父親」は、息子を哀れむどころか、毒虫のように追い立て、救いの手を差し伸べようともしない。
カフカの言葉に「愛情はよく権力の顔をしているものです」というものがあるが(自身の父親について語ったものと言われる)、グレーゴルの父親も、息子の庇護者というよりは一家の権力者であり、父親の一撃が致命傷となって、グレーゴルは息絶えてしまう。
本作に登場する父子関係はぞっとするほどドライだが、不思議と納得するのは、家族の実像を描いているからだろう。
断絶の中の安らぎ
ドアの透き間から見ると、茶の間にはもうガス燈がともっていた。いつもならこの時刻には父親が一段と声を張り上げて夕刊を、母親や、ときには妹に読んで聞かせているのだが、いまは物音ひとつしない。してみると、妹がいつも話してくれたり手紙に書いてよこしたりしたこの新聞朗読の行事は、現在ではもうまったく廃止されているのかもしれない。
それにしても、家の中に人がいないというわけはあるまいに、あたりがじつにひっそり閑としている。
「なんていう静かな暮らしぶりなんだろう」
グレーゴルはひとりごちた。
そして眼前の闇を見つめながら、両親や妹にこういうけっこうな住まいの中でこういう暮らしぶりをさせることのできる自分もまんざらじゃないなと考えた。
しかしこの安楽、この幸福、この満足のいっさいがいまや恐ろしい最後をとげることになるとしたらどうであろうか。
いや、そんなことを思ってくよくよするよりは、と考えたグレーゴルは、それよりも体でも動かしてみようというわけで、這って部屋の中を行ったり来たりした。長い夜がふけていくあいだに、そばのドアが一度、それから向い合せの川のドアが一度、ほんの少々ばかり開かれて、すぐにまた閉じられた。 だれかが部屋にはいる用事があったのであろうが、やはり心配と不安が先にたってはいりかねたのであろう。そこでグレーゴルは茶の間に通ずるドアのわきにぴったりと身を寄せて、できることなら、はいり悩んでいる訪問者をなんとかして部屋に入れるか、それができないのならせめて相手がだれであるかを知ろうとした。ところがドアはもうそれきり開かれなかった。待ってみたがむだだった。ドアというドアに鍵がかかっていた今日の早朝はだれも彼もグレーゴルの部屋にはいろうとしたのに、いまはだれもやってこない。≪中略≫ そしていまではどの鍵も外側からさしこまれていた。
家族に疎外されたグレーゴルは、自室に閉じこもるが、家の中がしんと静まりかえっているのに、かえって安らぎを感じる。
虫になっても、嘆きもせず、助けも求めず、家の中の静けさに満足を覚えるグレーゴルには、最初から居場所など無かったのかもしれない。
身近な人間と信頼関係を結びそこなった人間にとって、断絶こそ安らぎだ。
この状況が決して悲劇ではない点に、作品の本質がある。
家族の看病疲れ
グレーゴルは寝椅子の縁まで首を伸ばしきって妹を眺めた。ミルクを飲まずに置いてあるのに気がつくだろうか。それも腹が減っていないからじゃないんだが。もっと口に合うような別のものでも持ってきてくれたのかしら。
≪中略≫
けれども妹はけげんな顔つきですこしも減っていない牛乳の鉢をすぐに見つけだした。鉢のまわりに少々牛乳がこぼれているだけである。彼女はすぐ鉢を取り上げた。ただし素手ではなくて雑巾でである。そして部屋の外へ持ちさった。
兄の器を素手ではなく、雑巾で持ち運ぶ妹の様子から、すでに家族関係が破綻している様子が窺える。
妹自身、最終場面で告白するが、どんな善良な人間も、お荷物みたいな家族の世話を喜んで引き受ける余裕はない。
このあたりの描写は、看病疲れで疲弊し、しまいには病人を疎むようになる人間の本質を巧みに描き出している。
グレーゴルはときどき善意の言葉、あるいは善意と解される言葉を小耳にはさむことができるようになった。グレーゴルの食が進んだときは、妹は「あら、今日はおいしかったとみえるわ」と言い、反対の場合には「またちっとも食べてないわ」と悲しそうに言うのがつねであった。ところでそういう反対の場合がしだいにひんぱんにくりかえされるようになってきたのである。
看護人が苛立ちをつのらせる様子がよく分かる。
おろおろする母親
一方、生みの母は、虫になった息子からひたすら逃げ回り、正面から対峙しようとしない。
決して愛情が薄いわけではなく、乗り越える勇気がないのだろう。
だが、そういう母親は決して少なくない。
父と息子が喧嘩しても、上手く取りなすことができず、いっそう事態を深刻化する。
以下は、だんだん荒んでいくグレーゴルの部屋をどうするか、相談する為に、妹が母の手を引いて、部屋に入ってくる場面。
いっそこれは(家具)やっぱりこの部屋に置いておいたほうがよくはないのかね、だいいち重すぎるし。
≪中略≫
それにね、家具を片づけてしまってグレーゴルがどう思うだろうか、あたしたちには皆目見当がつかないじゃないの。かえって以前のままにしておいたほうがいいんじゃないの。グレーゴルの身にしてみれば。家具を片づけてしまうとお部屋ががらんとして、あたしにはなんだかたまらない気持ちがするのさ。なにしろ長いことこの部屋に寝起きしてきたんだから、一切合切片づけてしまうと、なんだか見捨てられてしまったような気にならないともかぎらないからねえ
≪中略≫
家具を片づけたりすれば、あたしたちがあの子がよくなることをすっかりあきらめてしまって、まるであたしたちがもうあの子のことをかもうとしないんだということをはっきりと言ってしまうようなことになるじゃないの。あたしはこう考えるんですよ、部屋の模様はむかしとそっくりそのままにしておいたほうが、またグレーゴルが人間にもどったときにこの部屋がちっとも変わっていないのを見て、それだけ容易にそのあいだのことが忘れられようというものじゃあるまいかねえ」
罪のリンゴ、本音の赤色
しかし、母のこうした気遣いは、兄の世話に疲れきった妹の翻意により却下され、グレーゴルの家具は妹と母の手によって、すっかり運び出される。
だが、作業の途中、つい、虫になった息子の姿を目にしてしまった母親は、「助けてえ、助けてえ」と叫びながら、寝椅子の上に倒れ込んでしまう。
その顛末を知った父親は――非常に有名な場面――虫になった息子にリンゴを投げつけ、致命傷を与えるのである。
本作は最初から最後まで暗いトーンで描かれ、東欧の旧市街の陰鬱とした雰囲気が漂うが、なぜか、この場面だけは、非常に鮮烈な色彩をもって描かれる。
例えるなら、灰色のキャンバスの中で、このリンゴだけが血のように赤いのだ。
このリンゴを、キリスト教の現在に喩える解釈もあるそうだが、罪というよりは、本音の赤、息子を滅ぼす権威の紅色であり、生々しい激情の色でもある。
もちろん、父親も本気で息子を殺そうとしたのではなく、軽く威嚇するつもりが、結果的に致命傷になったということだろう。
こうした些細な行き違いは、本作に限ったことではない。
親の何気ない冗談を真に受けて、生涯、心の傷となるエピソードは事欠かない。(お前はドジで、とろくさい、鼻が上を向きすぎている、等々)
親にとっては、やんわり投げつけたリンゴでも、子供には致命傷になるという喩えだ。
結局、この一撃が致命傷となり、グレーゴルは息絶えるが、死んだのは肉体というより、家族の一員としてのポジションではないだろうか。
一つの家族が幸福になるには、一人の犠牲が必要
一つの家族が幸福になるには、スケープゴート(生け贄)が必要――という話は、河合隼雄氏の心理学コラムで読んだ。
家族に限らず、どんな人間関係も、グループが円滑に運ぶには、常に誰かが我慢する必要がある、という喩えである。
グレーゴルの一家も、グレーゴルを犠牲にして、いつもの日常を取り戻す。
一月以上もグレーゴルを苦しめたこの重傷は――だれもあえてとりのけようとする者がいなかったので、あの林檎は、この事件の目に見える記念品として肉の中にめりこんだままになっていた――現在のいたましくもおぞましい姿かたちにもかかわらず、グレーゴルが家族の一員であり、家族の一員は敵みたいにとりあつかうべきではなく、逆に嫌悪の情を胸にたたみ込んで忍ぶ、ただもう忍ぶということが家族の義務の命ずるところなのだということを父親にさえ半生させたように見うけられた。
そして、互いに、次のような結論を下す。
「放り出しちゃうのよ」と妹が言った。「それ意外にどうしようもないわ、お父さん。これがお兄さんのグレーゴルだなんていつまでも考えていらっしゃるからいけないのよ。あたしたちがいつまでもそんなふうに信じ込んできたってことが、本当はあたしたちの不幸だったんだわ」
≪中略≫
「さて」とグレーゴルは考えて、あたりの暗闇を見回した。自分がもうまったく動けなくなっているのがほどなくわかった。それを格別不思議だとも思わなかった。むしろこのほそぼそとした足でここまで(自分の部屋)まで這ってこられたというのが不自然なくらいであった。
≪中略≫
柔らかい埃にすっかり覆いかくされた背中の腐った林檎やその周囲の縁勝負の存在もすでにほとんどそれとは感ぜられなかった。感動と愛情とをもって家の人たちのことを思いかえす。自分が消えてなくならなければならないということにたいする彼自身の意見は、妹の似たような意見よりもひょっとするともっともっと強いものだったのだ。
妹は「放り出せ」と言い、グレーゴルは「自分が消えるしかない」と考える。
これぞ機能不全家族の正体であり、虫になろうと、なるまいと、グレーゴルは家族から締め出され、いずれ精神的に息絶えていただろう。
グレーゴルには最初から分かりきった結末であり、臨終の際も、こんなにも静かなのである。
夕陽のガンマンのようなエンディング
この後に続く、家族の悟りが素晴らしい。
これほどの悲劇があったにもかかわらず、まるで夕陽のガンマンのような爽やかさである。
カフカ自身は不満だったようだが、文学史上に残る見事な結末である。
悪夢を見ていたのは、グレーゴルか、家族の方か。
「厄介払い」という言葉があるが、厄介する側より、厄介を払う側の方が、なぜか罪悪感を覚えるのは、私たちが本能的に罪を恐れ、そんな自分自身を恐れているからだろう。
大変な悲劇にもかかわらず、なぜか爽やかな読後感を覚えるのは、みな、似たり寄ったりだからかもしれない。
カフカの生い立ち ~巻末の解説より
新潮社『変身』の巻末には、有村孝弘氏による、カフカの生涯と作品に関する評論が掲載されている。
その中から、『変身』に繋がるエピソードを紹介したい。
孤独な少年時代
カフカは1889年の秋、プラハの旧市街にあるドイツ系小学校に入学した。父親のヘルマンは仕事に忙殺され、また、母親も常に父親の助手として働いていたので、幼いカフカが両親と顔を合わすことはまれであった。教育は料理女と、そして後になってからは、フランス人の女家庭教師にまかされていた。
したがって、幼いカフカは常に孤独であった。
カフカは後年、幼年時代の母の躾について『父への手紙』のなかで、次のように述べている。
『母が僕に対して、とても優しかったのは事実です。しかし、僕にとってはそれもすべてあなたと関係していたため、結局はよい状態にあるとはいえませんでした。母は無意識のうちに、狩猟における勢子の役割を果たしていたのです。……そして、そのことで僕が独りだちしそうなときは、いつも母が間に入り、その優しさで、あるいはまた……あなたへのとりなしによってまるく収めるのでした。』
普通の家庭では、横暴な父親から母親が子供をかばう。しかしカフカの家庭では、父親の意を受けた母親のとりなしによって、子供は父の権威にまるめこまれてゆく。したがって父親に抵抗しながらも、たくましく成長していくという普通の子供たちの経験をカフカは有しなかった。母親譲りのデリケイトな性格は、このような教育によって、ますます、内面的なものになった。
父との対立相克
『判決』の主人公のゲオルグ・ベンでマンはフリーダ・ブランデンブルクという女性と婚約するが、父親はそれに反対し、ゲオルクに死刑宣告を下す。驚き、怖れ戦いたゲオルクは、父の部屋をとびだし、川へ身を投げて自殺する。
ストーリーから推せば、実に変な物語であるが、ここには、カフカと実在の父親との関係が暗示されている。
カフカはその生涯を通して常に父親と対立していた。
父親はカフカの生活のあらゆること、職業のこと、結婚のこと、日常生活の様々なことに干渉した。
カフカは『父への手紙』のなかで、「父上、あなたは肘掛椅子に座ったまま世界を支配していらっしゃいました。あなたの意見が絶対正しくて、他の意見はすべて狂って変で、おかしな意見ということになってしまいました」と述べ、父親に絶えず支配されていたことを嘆いている。
しかし、そうかといって、カフカが父親を徹底的にきらい、また父親もカフカを憎んでいたかといえば決してそうではない。
「父親が息子の人生に深い影を落とした」と言えば、ドストエフスキーも似たような境遇で、『カラマーゾフの兄弟』の父親殺しに色濃く反映されているのは有名な話である。(参考→ 淫蕩父 フョードル・カラマーゾフ 指針を欠いたロシア的でたらめさ (1))
カフカに限らず、実親に人生を害された作家は世にごまんといて、寺山修司もその代表格だ。(参考→ 支配する母親と囚われる息子の歪な愛憎を描く 戯曲『毛皮のマリー』)
これは当方の推測だが、元々、作家になるような感受性の鋭い子供は、親の何気ない一言にもビクビク反応し、よその子なら笑って受け流せることも、いちいち真に受けるので、実像より親が悪く語られる部分もあるのではないか。
学校でも、ある子供は担任教諭を恐れ、ある子供は「そうかなぁ」と首をかしげる。
それと同じで、カフカも、ドストエフスキーも、実像以上に恐れていた部分はあるだろう。
親の印象は、きょうだいによっても大きく異なるし、本当にそこまで質の悪い親なら、偉大な作家など生まれようがないからだ。
だとしても、屈折した思いが、『変身』のようにユニークな作品を生み出したことは、人類にとっては有り難いことで、カフカには申し訳ないが、貴重な体験をありがとうといったところである。
人類が幸福になる為には、スケープゴートが必要で、カフカもその一人だったのかもしれない。
絶望名人カフカの人生論 ネガティブすぎて笑っちゃう
カフカは日記や手紙など、たくさんの文章を残しているが、いずれも悲観的で、フォローのしようがない可笑しさだ。『カフカの人生論』からお気に入りの名言を紹介。
【ギャラリー】 カフカ博物館(プラハ)と書籍の表紙など
プラハのフランツ・カフカ博物館。カレル城の近く、旧市街の中にあります。
シティホールにある、カフカの頭部を模したオブジェ。
博物館内部のツアー動画です。
イラストは、chryssalis氏。(DEVIAN ARTより)
悪夢のような虫の容態が印象的。
作中に詳細な描写はないですが、半分虫で、半分人間というのは、その通りと思います。
『変身』の表紙はどれもユニークです。
英語版の書籍。MARQUISストアより。
どこか投げやりな、ジーンズ姿のグレゴール・ザムザ。反抗期の少年のようです。
アメリカのペーパーバックより。
虫の正体は「ゴキブリ」というのは、その通りでしょう。
amazon US オーディオブック Audibleのカバーより、
こちらはロイヤル・オペラ・ハウスの舞台。他にも舞台写真が掲載されています。なるほど納得の演出です。
こちらは、古典的なザムザの部屋。Colby College Librariesより。
他にも、「Metamorphosis kafka」「Die Verwandlung kafka」で検索すれば、いろいろ出てくるので、興味のある方はぜひ。