精神的親殺しとは何か 子供の自立と親子対決

目次 🏃

【はじめに】 親の死を願う子供たち

2009年6月23日、自分の運営するウェブサイトに、『『オイディプス王と精神的な親殺しについて』というコラムを公開したところ、「親 死んで欲しい」「親 殺したい」「親 うざい」といったキーワードでアクセスが殺到しました。

内容は、ギリシャ神話の『オイディプス王』をモチーフにした子どもの自立と親子関係の話だったにもかかわらず、『親殺し』というキーワードに引かれて、サイトを見に来たのでしょう。

そこで、五年後の2014年年7月15日、上記に補足する形で『「親 死んでほしい」「親 殺したい」で検索する人が多いので(現在のタイトルは『親の死を願っても、人生は変わらない)』という記事を公開したところ、再びアクセスが殺到し、2017年12月までの間に『オイディプス王と精神的な親殺しについて』は約135,000回、『「親 死んでほしい」「親 殺したい」で検索する人が多いので』は約293,000回のアクセスを集めるまでに至ったのです。

しかし、「親 死んで欲しい」「親 殺したい」というキーワードで検索する人は、本気で親の死を願い、殺す方法を考えているのでしょうか。

彼らが検索する理由は、大きく二つあると思います。

一つは、自身の怒りや葛藤を表現する言葉として、「死ね」「殺す」というキーワードが気軽に用いられるようになったことです。昨今のいじめ問題でも顕著なように、「死ね」「カス」「うざい」「消えろ」等々、人を貶めるような物言いに対する抵抗感もだんだん失われています。私が小学生の頃は、「どれほどクラスメートに腹が立っても、『死ね」と『殺す』だけは言ってはいけない」と担任教諭からきつく諭されたものですが、今はメディアでも、インターネットでも、人を貶めるような言葉が平気で使われているせいか、子どもたちも普通に真似するようになっています。「親 死んで欲しい」「親 殺したい」という表現も、子どもたちにとっては、「ムカつく」ぐらいの感覚なのかもしれません。

もう一つは、自分と似た境遇の体験談を読み、救いの手がかりとするものです。「親 死ね」と検索する子どもも、皆が皆、心からそう願っているわけではありません。SNSやブログを検索して、誰かが同じようなことを呟いていたら、ほっとする。それだけのことだと思います。むしろ、誰かが同じようなことを呟いているだけで、救いになる部分もあるのではないでしょうか。

本書は、「親 死んで欲しい」「親 殺したい」で検索する人に、その心のエネルギーを少しでも良い方向に向けてもらえたら、と願って書きました。なぜなら、自覚した時が、成長のチャンスでもあるからです。

また親の立場でも、関係改善のヒントにして頂けたら嬉しいです。

なお、身体的暴力、ネグレクト(与えない、教えない、食べさせない)、絶え間ない罵倒や人格否定によって精神的に問題を抱えておられる方(社会生活に支障をきたすレベル)、衣食住や義務教育もままならない環境に放置されている方には専門的な支援が必要ですので、次のような機関にご相談下さい。

『十八才までのあなたへ』 特定非営利活動法人 児童虐待防止協会
http://www.apca.jp/child
電話番号 06ー6762ー0088

『よりそいホットライン』 一般社団法人 社会的包摂サポートセンター
https://www.since2011.net/yorisoi/
電話番号 0120ー279ー338 (二十四時間・通話料無料)

河合隼雄の『家族関係を考える』

私が初めて『精神的親殺し』という概念を知ったのは、臨床心理学で有名な河合隼雄氏の著書『家族関係を考える』(講談社現代新書)』がきっかけです。

高校三年生の時、偶然、本屋で手に取ったのが最初の出会いでした。

その頃、哲学や心理学、西洋占星術など、人間を分析する事に興味があり、講談社現代新書シリーズの書架もしょっちゅう覗いていたのです。

私は昭和四十二年生まれで、中学時代は「ツッパリ」「不良少女」に代表される『荒れる中学校』を体験し、高校時代は『THE MANZAI』や『オレたちひょうきん族』に代表される軽薄短小とイケイケ文化の洗礼を浴びて、価値観の変容をリアルに感じた世代です。

時代のヒーローが、「みんな、あの夕陽に向かって走れ!」みたいな熱血先生や、「青春は白い鳩~♪」みたいな賛歌から、ビートたけしや明石家さんまのようなお笑いに取って代わり、真面目に考えることや、一つの目標に向かって一所懸命に頑張ることは、「ダサい」「ネクラ」といって馬鹿にされました。

バブル経済前夜、大量消費社会ここにきわまれりの勢いで、中学生も高校生も、現代の若者みたいな閉塞感もなく、いい学校に入って、いい会社に入って、ブランドのバッグや外車を買って、たまに海外旅行を楽しんで……といった右肩上がりの未来を信じて疑わず、目の前の席に座れば一生安泰みたいな、暢気な時代でした。

しかし、その代償は、確実に子ども世代に影を落としていました。

仕事、仕事で家庭を顧みない父親、受験、受験で、子どもを追い立てる教育ママ、そんな両親の偏りに気付きながらも、核家族化で無干渉を決め込む祖父母世代、教科書一辺倒で、人間にとって本当に大事なことは何も教えない学校、エトセトラ。

七十年代には、非行や校内暴力といった形で現れ、八十年代には家庭内暴力が顕著になりました。見るからに悪そうな子どもが問題を起こすのではなく、真面目で優秀と近所でも評判の「よい子」が、ある日突然ネジが切れたように暴れ出し、ついには子が親を殺す、あるいは思い悩んだ親が我が子に手をかけるという、最悪の事態に至るのです。

私の世代で特に印象に残っているのは、エリート一家に育った十六歳の進学校の生徒が祖母を殺害し、自身も高層ビルから飛び降りて自殺を図った事件でしょう。少年が書き綴った遺書は大手新聞社にも送られ、自己の存在を世間に知らしめる、劇場型少年犯罪の走りのような事件であったと記憶しています。

河合氏の『家族関係を考える』は、こうした背景を受けて、一九七九年五月から一九八〇年四月にかけて、講談社発行の雑誌『本』に「家族関係再考」と題して連載されました。

れらは「家族とはこうあるべき」と教え諭す内容ではなく、「なぜ親はこのように振る舞い、子どもはこんな風に感じてしまうのか」ということを、ギリシャ神話やキリスト教の視点も交えながら考察する心理学コラムです。 

第五章『父と息子』の中で、河合氏は、父と息子の心理的な力関係をギリシャ悲劇『オイディプス』になぞらえ、息子が人生の支配者である父親を心理的に乗り越える過程を『内面的な親殺し』という言葉で表現しました。それを私の中で『精神的親殺し』と解釈したのが『『オイディプス王』と精神的な親殺しについて』です。

前のエピソード
幸せを相手に依存しない ~彼氏がいないと一人で居られないあなたへ~ 彼氏が居ても居なくても、思うように愛されなくても、あなたの価値は変わりません。自立とは、自分で自分の幸福に責任が持てることです。幸せを相手に依存すれば、幸せも不仕合わせも相手の気持ち次第になってしまいます。カップルの幸福は、自立した二人の人間が足並みを揃えることであり、どちらか一方が依存する関係ではありません。

 

オイディプスの物語

 
テーバイの王ライオスはある神託によって、今度新たに生まれた息子をそのまま成長させるならば、自分の王位と生命に危険があると戒められます。けれども、従者は子どもを哀れに思い、赤ん坊の足をくくって、樹木の枝にぶら下げます。赤ん坊は百姓に救われ、オイディプスと名付けられて、コリント王の宮廷で大切に育てられました。

ある時、父のライオス王は、一人の従者を連れて、デルポイに向かう道の途中で、同じように二輪車を駆ってくる一人の青年に出会います。王は「道を譲れ」と命じますが、青年は聞き入れません。ライオス王の従者は王の力を見せつける為に青年の馬を一頭殺しました。すると、青年は立腹し、従者もライオス王も二人とも殺してしまいました。この青年こそオイディプスです。

ライオス王は相手が自分の息子であると知らずに、またオイディプスは王が自分の父親だと全く気付かずに、道を譲る、譲らないの諍いで、親を殺したのです。

この後、オイディプスはテーバイの王に迎えられ、ライオスの妻イカオステ――つまりは自分の母親を娶ります。しかし、テーバイでは飢饉と疫病が蔓延し、神託を伺ったところ、父親殺しと母との姦淫という二重の罪が明らかになりました。イカオステは自殺し、オイディプスは自責の念から両目をくりぬいて、死ぬまで荒れ地を彷徨います。

オイディプスと精神的親殺し

この悲劇を最初に精神分析の用語に取り入れたのは、『精神分析入門』で有名なオーストリアの精神科医ジークムント・フロイトです。フロイトは、*1男子が母親に性愛感情を抱き、父親に嫉妬する無意識の葛藤感情を『エディプス・コンプレックス』と名付けました。 

河合氏曰く、「エディプス・コンプレックスとは、フロイトによると、男の子が四―六歳くらいになると母に対して性欲の萌しを感じ、父親を恋仇とみなして嫉妬する。このため父の死をさえ願うほどになるが、一方では父を愛してもいるために、自分の敵意を苦痛にも感じ、この敵意に対する罰として去勢されるのではないかという去勢不安を感じるようになる。しかし、男の子はその後の発達において、父と同一化し、父と同じ道を歩むことによって社会に受けいれられてゆくが、前記の感情はコンプレックスとなって無意識内に残されることになる。その後暫くはこのコンプレックスは静かにしているが、思春期になると活動をはじめ、かつて未解消のままにされた情動がいろんな行動となって顕現されることになる」。

これに続き、第五章『父と息子』の『父なるもの』の節で、河合氏は次のように説明しています。

われわれの無意識界の深層には、母なるものの元型が存在するように、父なるものの元型も存在する。しかしながら、既に述べてきたように日本は母性の強い国であるから、父なるものの存在は意識され難いようである。父なるものは、子どもが母親より離れ自立してゆくとき、自立を支える規律を与えてくれる。ところで、息子たちは既に述べたように父親に反抗するのであるが、結局は父親と同一化し、その社会の成員となってゆく。このとき、父親はその成員の属する社会の文化や伝統の担い手としての役割をもっている。息子たちは、そのような文化や社会が「父なるもの」の規律によっていると感じて、それに従うのであり、言うなれば、自分の父親の中に父なるものの威厳を感じているわけである。

ところが、真に創造的な人間は、個人としての父と、父なるものとの差異を感じとる。父なるものは生きていく上において必要な規律と法則を与えるが、創造的な人が把握するものは、伝統的な古い法則と異なるものである。この際は、息子は英雄となり、父なるものを背後に持ちつつ、父親殺しを成し遂げる。もちろん、ここで父親の方も古い伝統を背景として、息子を迫害しようとし、時には息子が敗北することもある。あるいは、この迫害によってこそ、息子は英雄として鍛えられてゆくと言ってもいいだろう。

分かりやすい例として、ジョージ・ルーカスの大ヒット映画『スター・ウォーズ』のルーク・スカイウォーカーとダース・ベイダーが挙げられます。

遠い昔、遙か彼方の銀河系、反乱同盟軍のジェダイの騎士、ルーク・スカイウォーカーは、銀河帝国を打倒すべく、皇帝パルパティーンの右腕で、卓越した剣(ライトセーバー)の使い手でもあるダース・ベイダーと対決します。しかし、このダース・ベイダーこそ、ルークの実の父親でした。ダース・ベイダーは、父子で力を合わせて、銀河を支配しようとけしかけますが、自由と公正を愛するルークはこれを拒否し、ダース・ベイダーと剣を交えて、ついには父親を打ち倒します。

これも旧い価値観に拘る親と、自由独立を目指す息子の闘いに他なりません。父を討ち取った息子は英雄として新しい社会に迎えられ、次代の指導者となります。

このような設定はスター・ウォーズに限ったものでなく、漫画や小説でも類似の英雄物語は数多く存在します。父子でなくても、社会の父親的存在(権力者や組織の長など)と、新しい価値観をもった子ども世代の主人公が対決し、ついには父なるものを滅ぼして、次代の指導者となる話はヒーローものの定番です。時には、ロミオとジュリエットのような試練を経て、父なるものの最愛の女性(多くの場合、娘)を娶ることもあります。

こうしたヒーローものが大衆に支持されるのは、成長過程における親殺しを理解し、肯定している証ではないでしょうか。

家庭内の父親殺しもスター・ウォーズと同じです。

たとえば、右肩上がりのバブル期に青春を謳歌した父親は、「一流企業に就職して、一生安泰」と勧めますが、先細りの未来を感じ取っている息子は、もはやそんな寝言が通じる世の中ではないことを肌で感じ取っています。同じ厳しい未来を生きるなら、自分の好きなことをして、納得がいくように生きたいと願う気持ちもひとしおでしょう。父子の価値観が異なれば、当然、家の中で衝突しますし、父親が自分の考えに拘れば、息子の行く手を阻むライオス王となります。息子が己の道を行くなら、目の前のライオス王を倒さねばなりません。その覚悟と決意は、まさに『親殺し』と呼ぶ他ないほど強く激しい感情です。そんな息子の気魄に圧倒され、父親がもはや何も言えなくなってしまったら、ダース・ベイダーの敗北といえるでしょう。

河合氏は、第十一章『家族のうち・そと』の『死を通しての再生』の中で、「子どもが大人になるということは大変なことである。既に述べてきたように、子どもは真の大人になるためには、内面的な母親殺しや父親殺しをやり遂げねばならない」と著しています。

言い換えれば、内面的な親殺しに失敗すると、本当に親を殴り殺すか、逆に自分自身を殺してしまうことになります。たとえ肉体的に自殺しなくても、心が死ねば、子どもにとっては自死と同じことです。

私はその論理に非常に納得し、今自分の心の中で起きていることは、まさに『内面的な親殺し』であると悟ったわけです。

この気付きは非常に大きな転機となりました。何故なら、漠然とした不満の正体が分かったからです。もし、正体が分からなければ、自分でも悶々としたまま、「親を殺すか、自分が死ぬか」を引き摺ったかもしれません。不満の正体がまさに内面的な親殺しの感情であり、それは悪でもなければ、間違いでもない、私は親の価値観から離れて『自分』というものを生きたくなったのだと痛感した時、自ずと進路も見えました。私は心の中でライオス王を打ち倒し、自活することを選んだのです。

十七歳・バット殴打事件について

補記 2022/09/22

1990年代後半から2000年前半にかけて、『十七歳の凶行』が問題視されたことがありました。

些細なことで激怒したり、家族に対する長年の恨みを突如爆発させて、親や隣人らを殺傷する事例は『キレる17歳』と呼ばれ、それまで真面目な少年だったのに、なぜ、突然こんな凶行に走るのか、大人たちは首を捻ったものです。(詳細は、Wikiの「キレる17歳」を参照のこと)

新聞や雑誌でも盛んに特集記事が組まれ、TV番組でも様々な議論が飛び交ったものでした。

以下は、バット殴打事件に寄せられた、10代の声です。(金属バットを使って、就寝中の親を殺害する事件は何度か起きています)

岡山のバット殴打事件の十七歳少年について、七月九日のテレビでコメントされていた専門家の意見に違和感を覚えました。

少年の「母親に迷惑がかかるかもしれないので殺した」という供述に対して、元警視庁捜査一課のT氏は「これは自己弁護にすぎない。母親がかばってくれず、警察へ行こうとしたから殺したのだ」と発言しました。T氏には少年の心理が分かっていません。

わたしたち十代にとって、母親は精神的に分離していない自分の一部なのです。少年の供述はそれほど不自然でもありません。もちろん、迷惑がかかるから殺すとは、尋常な精神状態の行動とは思えず、おそらく辱めを受けた彼が日々精神のゆがみを積らせた結果でしょう。

自己弁護というのは、利害関係に基づいた大人の思考です。利害を考える人間なら、逃げるのももっと計画的です。彼の逃亡は無謀でした。逮捕されるから逃げるというのではなく、母親を殺した罪の意識からの逃亡のように思えました。

少年の犯罪を大人の犯罪と同じ視点で見るのは、誤りが多く危険なことだと思います。母親を殺してしまったこの少年の悲しみを理解してほしいと思います。

サンケイ新聞『10代の声』より 文:予備校生

尊属殺人が起きると、世間の人は口を揃えて「家族なのに」と非難しますが、相手が「親だから」、子供は人一倍苦しみ、殺滅したいほどの憎しみを感じるものです。

なぜなら、愛が深いほど、憎しみもいっそう強くなるからです。

愛の対義語は無関心であって、憎しみではありません。

言い換えれば、憎いと思うほど、親を愛し、また愛を求めていた裏返しなんですね。

皮肉なことに、愛というのは、繊細で、やさしい心の持主しか感じ得ないものです。

本来なら、その優しさは、いっそう気高い慈愛に昇華したはずなのに、幾多のストレスと絶望から、憎しみに裏返ってしまったのでしょう。

思春期の親子問題は、「親を殺すか、自分が死ぬか」の世界です。

目の前の親を削除するか、それとも自分自身が消え去るか、己(おのれ)が生きるか死ぬかの激しい葛藤です。

しかし、それは適切なサポートを得て、心が成長すれば、自然に乗り越えるものです。

精神的に乗り越えるのに失敗すると、現実に、親を消し去ってしまうのです。

誰かにこっそり教えたい 👂
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