私たち、バブル世代の女子一同は、聖子 VS 明菜の戦いに、二人の女の生き様を見ていました。
聖子と明菜。
どちらが先に、愛を掴むか。
どちらが先に、結婚するか。
どちらがより幸せで、世間に称えられるか。
それは言わば、男に愛され、守られて生きていくのが正解か、それとも女も強くあるべきなのか、みたいな、テンプレ間の争いでもあったような気がします。
もちろん、どちらも自立した立派なアーティストで、当人同士にそんな自覚はなかったと思いますが、世間がそういうイメージで売っていたので、私たちも比較せずにいられなかったのです。(ITに例えれば、天衣無縫のスティーブ・ジョブズか、優等生のビル・ゲイツか、みたいなイメージ)
しかし、明菜ちゃんには、あのような出来事があり、それから数十年後、聖子ちゃんにはあんな出来事がありました。
記者会見で憔悴しきった聖子ちゃんの姿を見た時、若い時分に優劣を競い合うことが、いかに無意味で、馬鹿馬鹿しいかということを、痛感せずにいられませんでした。
人生もここまで来たら、上も下もないし、昭和のベストテンでトップを走っていたからといって、それがどれほどのものかと思い知らされたからです。
もし、あの全盛期、神様が「お前は数年後、こうなるよ」「お前は数十年後、こういう目に遭うよ」と告げていたら、二人とも、到底、生きてはいかれなかったでしょう。
そういう意味でも、あの二人は、バブル生まれの女子をいろんな意味で啓蒙してくれたし、バブル期の異様な女の争いに終止符を打ってくれた、という気がしないでもないです。
また、そういう宿命の元に生まれた人たちなのかもしれません。
今も、それぞれのポジションでマイクに向かい、往年のヒット曲を新たなスタイルで熱唱している姿を見ていると、もはや聖子派、明菜派もなく、独身の子も、既婚の子も、キャリア組も、専業主婦も、「私たち、けっこう頑張ったよね」と心の底から思えるのではないでしょうか。
結局、渚に白いパラソルもなく、薔薇のTATOOのように熱烈に愛してくれる人もなく、平凡な一市民として、すでに棺桶に足半分を突っ込んでいる今、ただただ思うのは、青春時代のピュアな夢や情熱こそが、本当の意味で、人生を彩ってくれる……ということです。