角川映画『キャバレー』について
「ひどい。あんた人間じゃない」「オレはヤクザなんだよ」
角川映画もちょっと鼻についてきたかな・・という頃に、突如、JAZZ+オトナ路線を打ち出し、興行的にも振るわなかった『キャバレー』。
野村宏伸クンの、なんとも素人っぽい演技がアレですけど、CM動画の、ヤクザに指を詰められる場面は強烈でした。
『キャバレー』のあらすじは知らなくても、マリーンの唄う主題歌『Left Alone レフトアローン』は聴いたことがある人が大半ではないでしょうか。
(これが映画・小説・主題歌をセットにして売り出す角川商法の強みです)
このCMには「オレはヤクザなんだよ」は入ってませんが、バブル世代なら、「そうそう、こういう作品があった」と思い出すはず。
キャバレー
↑ いつの間にかプライムビデオで配信中
もちろん、お茶の間に流れるCMに、指を切断する場面はないのですが、役者さんの仕草を見れば分かります
俊一(野村宏伸)「ひどい……あんた人間じゃない」
ヤクザの親分(鹿賀丈史) 「オレはヤクザなんだよ」
ヤクザは人間ではない。
言葉通りに受け取らないで下さいね。
私は弁証法として、この言い回しが好きだったのです。
「ひどい、あんた人間じゃない」→ 「オレはヤクザなんだよ」→ 「ヤクザは人間ではない」
鹿賀丈史に言わせれば、ヤクザとは、、『人間でもなければ、悪魔でもない、超然とした存在』なのでしょうけど、でも、ヤクザというだけで、人間以外の何かになってしまえるものなのか。私にはよく解りません。
なぜなら、人を恐喝したり、騙したり、利用したり、時にはマグロ漁船に乗せたり、泡風呂に沈めたり。
普通の人がやらない事を、平然とやれるからです。
もっとも、昨今は、『ネクタイをしめたヤクザ』が主流で、刃物が金融に取って代わっただけ、阿漕なところは今も昔も変わりませんが。(むしろ、現代の方が、素人を食い物にする点で、もっと悪質かもしれません)
多くのヤクザは、相手が謝ろうが、屈服しようが、問答無用で痛めつけるでしょう。
そして、相手が血だらけになっても、良心も疼かないし、反省もしない。
本当に心の底から、そんな風になれるのか、私には何とも信じがたいからです。
【コラム】 親分さんの思い出と怖い人がいたから守られた秩序
昭和の話ですが・・
私も、看護職を通じて、三人の親分さんと接したことがあります。
かなり有名な組長さんらしく、日曜日になると、一目でそれと分かる方々が徒党を組んでお見舞いに来られるので、一瞬、病棟が蒼然とすることも。
しかし、患者さんやスタッフ相手に「ゴラァァァア」なんて凄む人など皆無で、事情を知らない人が見れば、政府か大企業のVIPが入院してるのかと思うほどです。
それくらい、皆さん、礼儀正しいし、腰も低い。
看護婦やドクターの言うことも子供のように素直に聞いて下さるし、受付で「いつまで待たせんのじゃ! 院長を呼べ!」などと凄むこともない。
むしろ、中小企業の役員とか、○○大学の先生とか、中途半端に偉い人の方が態度が悪いぐらいです。
私も一度、松竹映画の主人公みたいな若頭さんに療養指導をしたことがありますが(組長さんの秘書的役割)、私の説明を熱心にメモして頂いた時は、相手が何ものかも忘れて、深い感銘を受けたものです。
それも背筋をピンと伸ばして、まるで王室警護のシークレットサービスみたい。
私もいろんな患者さんを見てきましたが、あそこまで勉強熱心で、姿勢のいい方は見たことがないです。後述の「藤原さん」しかり。
思うに、組長クラスの健康問題は、大企業の社長レベルの一大事であり、企業機密なのでしょう。
いくら、まとまりのある組織でも、突然、組長が倒れたら、ややこしいことになるのは、会社も親族も同じです。
だから、重度の病気でなくても、本人も、脇の人も治療に必死になる。
一日も早く元気になって、職場復帰しなければならないのは、組長もサラリーマンも同じです。
聞いた話によると、ヤクザの世界にも、「どのドクター(病院)が信頼できる」という口コミがあって、その必須条件は「口が堅くて、腕がいい」。
政治家や芸能人御用達の病院と同じです。
看護婦も、検査技師も、病棟助手も、ペラペラとお喋りで、「今、○○組の組長さんが、五階の特別室に入院してはるねん。××癌で、余命六ヶ月らしいわ」なんて、マスコミにたれ込むようなスタッフがいては、いくら腕がよくても、安心して任せられませんから。(ちなみに、患者の個人情報をリークするのは違法です)
また、そうした情報が業界内に浸透すると、「胃腸の病気なら、○○先生がいい」「あそこの病院は口が堅いし、信用できる」という話になり、その筋から頼られるドクターも出てきます。
すると、必然的に、その筋の方が診察にお見えになり、一般患者さんに混じって、待合室のソファに静かに腰をかけて、順番をお待ちになる姿も目にするようになります。それはそれは物静かな方が多いので、受付事務の方に、そっと耳打ちされるまで分からないことの方が多いです。松竹系の部下の皆さんは院外の駐車場、もしくは路上で待機している為、一般患者にも絶対にそれとは分からないのです。
(ちなみに、組長さんが診察を終えて、院外に出てくると、どこからともなく黒塗りの車がさーっと玄関口に付けて・・それも数台・・さっと乗り込んで、さっと去って行かれるそうです。私は見たことないけど^^;)
「でも、そいつら、影で悪いことをやってるんだろう。そんな人間を助けるのか?!」とお怒りになる方もあるかもしれません。
しかし、病気で苦しんでいる者に、人間も、やくざもありません。
誰にでも等しく医療を受ける権利があり、また医療者も、公正に治療を行う義務があります。
たとえ、罰を受けるにしても、骨折したまま、出血したまま、留置場に放り込むのは、法治国家のすることではありません。
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そんな感じですから、組長クラスになると、健康管理に対する気遣いも一般とは異なります。
血圧でも、血糖値でも、きっちりノートに記録して、服薬も指示通りになさるし、お酒や美食も控えて、回復に努力もされる。
看護婦の言うことにも真摯に耳を傾け、「ありがとうございます」「よろしゅうお願いします」、深々と頭を下げて、気遣いも欠かしません。
お帰りになってから、「あの方、立派ですねぇ。どこか有名な社長さんかしらん」と嘆息すると、「アホやな、あんた。○○組やで。立派に見えても、やくざはやくざやで」と先輩たちから諭される始末。
その度に、鹿賀丈史の台詞を思い返さずにいられませんでした。
「オレはヤクザなんだよ」
にわかには信じがたいけど、一度、その道に入ったら、人間以外の何かになれるのかもしれません。
だとしても、どこか人間としての気品や思いやりを持ち続けられるのは何故なのか。
間近で見れば見るほど、人間の不可思議を感じずにいないのです。
初稿: 2015年9月29日
区内の住民らはこの日に合わせ、総本部周辺で初の「暴力団追放パレード」を行い、暴力団排除の機運を高めた。
山口組のハロウィーン行事は近隣住民の懐柔が目的とみられる。平成27年には一部幹部が離脱し、指定暴力団神戸山口組が結成される分裂騒動の影響もあったためか中止されたが、以降は毎年開いている。
一方、兵庫県警は山口組側に行事をやめるよう自粛を要請しており、今年は行事に合わせ住民団体らが初めてパレードを企画。約100人が総本部周辺を約15分かけて回り、「暴力団はハロウィーンをやめろ」「子供たちを巻き込むな」などと訴えた。パレード後、住民団体役員の男性は「暴力団と地元の子供たちの関わりを断っていくため、続けていかなければならない」と話した。
しかし、山口組側は直後に行事を開催。かぼちゃの被り物をした組員らが、「ハッピーハロウィーン」などと呼びかけながら子供たちに菓子を渡していた。さまざまなキャラクターに仮装した子供らは呼びかけに応じ、母親らとともに次々と総本部内に入っていった。
山口組側が渡した菓子は綿菓子やチョコレートなど。ほかにトイレットペーパーも含まれていた。菓子を受け取った地元の小学6年の男子児童は「親からは『怖い人』と聞いている」とする一方、「実際に会ってみたら笑顔で優しかった」と振り返った。中には毎年受け取る友人や、1日に何度も菓子をもらいに行く友人もいるという。
この児童は「学校の先生から『知らない人に物をもらってはいけない』と教わるけど、この日は毎年楽しみにしている」と語った。
http://news.livedoor.com/article/detail/15527618/
反対運動したい人の気持ちも分かるけど、相手が目に見える形で危害を加えるならともかく、本当に善意でやっているとしたら(やくざにも善意や社会意識はある。チンピラには無いけど)、完全に断絶するより、どこか接点を残した方がいいような気がします。
相手も人間ですから、『北風と太陽』みたいに、ビュービュー吹き付けると、いっそう分断が進み、相手の態度も硬化します。
何でも「許せん」と脊髄反射する前に、少し考えて欲しい。
どうして日本に――とりわけ神戸に――こういう人たちが存在するのか。
これだけ社会に忌み嫌われ、明確に否定されながら、存続できる理由は何なのか。
そして、悪いとわかって、なぜ警察は踏み込まないのか。
年中、抗争しながらも、彼等の組織は強固なのか。
排除する前に、子どもに教えるべきことはたくさんあります。
私が子どもの頃は、「日本で一番治安がいいのは、○○組総本部の近所」という冗談があったぐらい特殊な存在でしたが、今でも思うんですよ。
こういう人たちが睨みを利かせているからこそ、逆に、守られる秩序もある、と。
それは暴力に対して、さらに強い暴力が威圧しているだけの話じゃないか、と思うかもしれない。
でも、一つの現実として、こうした影のパワーが世界のバランスを保っている。
やくざに限らず、政治、軍事、ビジネス、いろんな所に、そうした力は垣間見えます。
仮にこの世から全ての銃器が無くなったら、銃による殺人は無くなるかもしれないけれど、何十万、何百万が、雪崩のように国境を越えて、パニックになる所もあるでしょう。
「いざとなれば射殺しますよ」という脅しがあるから、保たれている平和もある。
その現実から目を背けて、子供に綺麗な世界だけ見せようとしても、かえって短絡思考になりかねません。
今後いっそう、物事の多面性を理解することが求められるからこそ、白と黒をいかに共存させるかという発想も必要なのです。
そんなことを言うなら、お前、実際に、やくざの近所に住んでみろ、と思う人もあるかもしれません。
でも、私の経験を言えば、近所にあの組長がいたから、地域も荒れず、校区のイベントも荒れず、妙に平和だった記憶があります。
(区民運動会の時には率先して応援に駆けつけ、太鼓をドーンドーンと打ち鳴らして、盛り上げてくれた)
それは決して認めたくない現実だけど、ああいう人にしか守れない秩序が存在するのは確かです。