子供の癇癪、ヒステリー、イヤイヤ病に手こずっておられるお母さん方。
子供が「あれイヤ、これ欲しい」と泣きわめくからといって、すぐに「人間がダメ」になると決めつけないでください。
癇癪もイヤイヤ病も、「イヤ」と泣き叫んだくらいで、人間が壊れたりしません。
二歳児のお子さんが、イヤと叫びながら、歩行者天国を襲撃しますか?
お父さんが寝ている間に、金属バットで殴り殺したりするでしょうか。
ご飯、イヤ。お風呂、イヤ。バナナ、イヤ。寝るの、イヤ。
毎日幼子が「イヤイヤ」と泣き叫ぶのを聞いていたら、お母さんは気が狂いそうになりますけど、別に、母親のことを否定してイヤと言ってるわけでもなければ、人生が不幸だからイヤと泣き叫んでいるわけでもない。
幼子は幼子なりに、何か気に入らないことがあるのでしょう。
白飯よりパンが食べたいとか、今はお風呂よりTVを見たいとか。
それを正直に物申しているに過ぎません。
「はあ、そうですか」と聞き流せばいい。
そこで「私の育て方が悪かった」とか「こんなひねくれ者では将来が心配」とか、どこかで聞きかじったような育児談話を真に受けて、深刻に考えるから、親子共々ノイローゼになって、虐待に走るんですよ。
私もいやでしたよ。
何をどうオファーしても、イヤイヤイヤイヤイヤの嵐で。
でも、いつも想ってました。
人間が大声で「イヤ」と言える時代など、人生の、最初の、ほんの2、3年だと。
それから後は、ひたすら「空気読め」の人生でしょう。
この数年、他人に対して、「そういうの、イヤです」とはっきり口にしたことがありますか?
そして、それを聞き入れてもらったことがあるでしょうか?
私は、ハラワタ煮えくり返りながらも、いつも思ってました。
そんな豪快に「イヤ」と言えるのも、今のうちだぞ、と。
だったら、イヤと言える時に、思いきりイヤと言わせてやろう。
今、イヤと言わずして、いつイヤと言えるのか(社会的に)。
「イヤ」に限らず、何でもそう。
「チョコレートより、アイスクリームがいい」
「プールより、公園がいい」
「魚より、鶏肉がいい」
「ママ、その髪型、変」
まあ、子供というのは、何でも正直です。
言いたいことを言って、子供一人が溜飲を下げております。
言いたい放題に言われる母親は、まさに子供のサンドバッグ。
身も心もボロボロですよ。
それでもね。
人生で、何の気兼ねなく、正直に物を申せる時期に、言いたいことを言わせないと、人間は「愛され感」を喪失します。
確かに、あれがイヤ、これがイヤと、好き放題に言うのはワガママに見えますよ。
でも、言うだけなら、タダなんです。
何故なら、それは意思表示だから。
私はこう思う。
私はこれが欲しい。
それを口に出して言うのは、ワガママではありません。
では、どういう時に「ワガママ」になるのか。
それは相手の気持ちも、状況も考えず、自分の我(意思)を押し通そうとした時です。
たとえば、「今日は何所に遊びに行こうか」と訊ねた時、お兄ちゃんは「公園」と答え、妹は「プール」と答える。
でも、両方行くのは無理としたら、兄か妹、どちらかが諦めないといけない。
そこで、「この前はお兄ちゃんの希望を聞いたから、今日は妹ちゃんの行きたいところに行こう。その代わり、次はお兄ちゃんの希望を優先するね」と説明して、納得するならば、お兄ちゃんが「公園に行きたい」と口にするのは、ワガママでも何でもないわけですよ。
そこで親の話も聞かない、妹の気持ちも考慮しない、「絶対、公園!」と言い張って、一歩も譲らないのをワガママと言います。
しかし、もっと最悪なのは、親に遠慮して何も言わないことです。
本当は公園に行きたいのに、すでに「親の顔色を窺う」「空気を読む」という態度を身につけて、無理に「じゃあ、僕もプールでいい」と答えてしまうのが、子供の成長、いわば育児にとって、最悪の結果なわけですね。
だって、それは自分を無くすることだから。
それが、つのり、つのった結果が、子供の鬱であり、自死であり、親殺しだと思います。
そう考えれば、子供が道端に寝っ転がって、「ママーッ」と泣き叫んだり、魚を出しても鶏肉を出しても「イヤ」と言ったり、アンパンマンいらん、トーマスにせぇと言ったり、好き放題に言うのは、安心している証拠です。
親のあなたがちゃんと耳を傾けて、自分というものを受け止めてくれるのを知っているから、あれはイヤだの、これが欲しいだの、好きなように言うんですよ。
幼くして、すでに親の顔色をうかがって、言いたいことも言えず、萎縮しながら育っている子供から見れば、これは非常に幸せなことなんですよ。
だから、私は、ぐらぐらと煮えながらも、好き放題に言っている子供を見るのが好きでした。好きも、嫌いも、私に対して、安心して言えるのだなと。イコール、育児が上手くいっている証拠ですからね。
逆に、幼い時に、自己主張もさせてもらえず、「お菓子を食べたい」と口にすることさえ憚られるような家庭の雰囲気で、子供が幸せに育つでしょうか。
表面的には、ハイハイと逆らわず、育てやすい、いい子に見えても、心の中では何を思ってるかは分かりません。
そして、ある日突然、爆発して、手の付けられない状態になってしまうぐらいなら、子供の間だけでも、意思表示は好きにさせるべきだと思うんですよね。親に対しても、イヤなものはイヤ、おかしい事はおかしいと、とはっきり言い、十代ならば、何故そう思うのか、ちゃんと言葉で説明できる。それが発達の証です。
目次
10ヶ月から1歳半の間に習得すべきこと → 『Yes』か『No』か、意思表示することが出来る
聞いてくれる相手が居れば、子供は自ずから良し悪しを学ぶ
10ヶ月から1歳半の間に習得すべきこと → 『Yes』か『No』か、意思表示することが出来る
数年前、アメリカの大手スーパーのチェーン会社が独自に編集している育児書を目にする機会があったのですが、そこで面白いなと感じたのは、
『10ヶ月から1歳半の間に習得すべきこと』
という項目の中に、
『Yes』か『No』か、意思表示することが出来る
という目標が設定されていたことでした。
単語や二語文で伝えられなくても、首を振ったり、手で押しのけるなどして、Yes か No か意思表示できることが、この時期の重要な成長の目安と考えられているのです。
日本では、意思表示する能力は、あまり重要視されないですよね。
むしろ、子供が「あれイヤ、これ欲しい」と自己主張を始めたら、「どうしよう、ワガママになった」と困惑する親が圧倒多数ではないかと思います。
実際、アメリカの知人宅に滞在した時、大人がランチを食べている横で、うちの子が「私もこれが欲しい、あれが欲しい」と言い出し、日本人の私はちょっと焦ってたのですが、同席していたアメリカの大学生の娘さんは、
「彼女は自分で『自分の欲しいもの』が分かっている。いいことだわ」
と言ってました。
日本なら、厚かましいとか、なんとか、遠慮する場面ですが。
聞いてくれる相手が居れば、子供は自ずから良し悪しを学ぶ
繰り返しになりますが、人間がストレートに自分の欲求や不満を言葉にできる時期って、人生の、最初の、ほんの数年だけです。
幼稚園、小学校にも上がれば、どこの世界でも団体行動が重視されますし、幼稚園でも、年長さんになれば「僕だけお絵描きします」とはいかないですから。
もちろん、何を口にしてもいいし、何を望んでもいい、というわけではありません。
悪い言葉は注意しないといけないし、物には言い方があることも教えないといけない。
言い方だけでなく、欲求が通らない時どうするか、納得いくまで説明して、譲歩や忍耐といったことも教えないといけない。
子供のサンドバッグになるのは決して楽ではありません。
だけども、それをやるか、やらないかで、十年後、二十年後が大きく違ってきます。
自分の気持ちをストレートに表すということは、
「自分も心をもった一人の人間である」
「自分という存在は、相手と同じぐらい価値のあるものだ」
「たとえ自分の気持ちを受け入れられなくても、ありのままの私が愛される」
といった自己肯定感や安心感を育む為に、絶対不可欠なことだからです。
大人になってから自己無価値感に苦しむ人が、どの段階で、どのように躓いたか(あるいは無視されたか)を知れば、自己主張を始めた子供に何をすべきか、自ずと見えてくるのではないでしょうか。
最後にもう一度。
「自己主張」と「ワガママ」は似て非なるものです。
自己主張は「私はこう思う」を言葉や態度に表すこと。
いわば意思の表明です。
ワガママは何が何でも自分の欲求を押し通すこと。
自分さえよければ、他人はどうなってもいい、という考えです。
自己主張には妥協がありますが、ワガママには妥協がありません。
自分の欲求が通らなければ、いつまでも恨みに思います。
「私はこう思う。これが欲しい」を言葉に表すこと、そのものに罪はありません。何が何でも我を押し通そうとするから問題になるのです。
幼い時に、自己主張できなかった子供は、「自分には価値がない」「本当の自分を見せたら嫌われる」と思い込み、どんどん抑鬱傾向になっていきます。
親の目には聞き分けのいい子でも、内側に恨み辛みを抱えた時限爆弾みたいなものです。
そう考えれば、泣いて、わめいて、ストレートに欲求を表現する子は、幼くして抑圧する子より、はるかに健康的なのですよ。
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子供は、泣いて、わめいて、大人の手を煩わせるのが仕事。
それでもありのままを愛するのが大人の仕事。
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子供の時ぐらい、「あれイヤ、これ欲しい」、好きなだけ言わせてね。
大人になったら、言いたいことも言えなくなってしまうから。
【メールマガジン『コラム子育て・家育て』より】
初稿 2008年2月8日