法と支援の狭間を描く映画『チョコレートドーナツ』
チョコレートドーナツ(2012年) - Any Day Now (今すぐに、いつでも。少年マルコに対するルディの心情を表す。ゲイであることを、ひた隠して生きるポールに対しても同様)
監督 : トラヴィス・ファイン
主演 : アラン・カミング(ルディ)、ギャレット・ディラハント(同性愛者の検事ポール)、アイザック・レイヴァ(ダウン症の少年マルコ)
あらすじ
ショーパブで女装して歌うルディは、心の優しい同性愛者。ある晩、ハンサムな検事局のポール・ブラガーと恋に落ち、車の中で関係をもつ。
そんなルディの隣人で、薬物依存症でもあるシングルマザーのマリアンナは、ダウン症の少年マルコを部屋に置き去りにして外出。その日のうちに逮捕され、刑務所に送られる。
ルディはポールと相談してマルコの監護者となり、三人は幸せに暮らし始めるが、彼らが同性愛者であることが発覚すると、ポールは社会的信用を失い、マルコとも引き離される。
マルコの身を案じるルディは、ポールと共に家庭裁判所に訴えるが、母親のマリアンナが釈放と引き換えに司法取引に応じたことから、マルコは母親の元に送り返され、ネグレクトが繰り返される。マルコは家を出て、ルディとポールの所に行こうとするが、待ち受けていたのは悲しい結末だった……。
見どころ
私が好きな映画の中でも、ベストテンに入る良作。
同性愛者がどうのこうの、という触れ込みに加え、日本版の予告も妙にエモーショルなので、「どうぜ説教くさいLGBT系の映画だろう」と思っていたら、それはあくまで設定の一部であり、本質は、児童福祉の欠陥を描いた社会派ドラマだった。
裁判所の言い分を聞いていると、あまりの融通のなさに怒りさえ覚えるが、福祉の側から見れば、駄目なものはダメと、線引きせざるを得ない事情は理解できる(私も元は医療者なので)。
それにしても、もう少し少年に配慮できなかったのかと、見終わった後ももやもやするが、妙に話を盛るのではなく、極めて現実に即した脚本になっている点が本作の見どころかもしれない。
説教じみた社会派ドラマが苦手な人も、LGBT系には苦手な方も、きっと心を動かされるヒューマンドラマである。
予告版はオリジナルの方が良質。
支援は善意だけで成り立たない
社会問題が起きると、世間はすぐ「支援、支援」と合唱するが、社会的支援はそう単純なものではない。
財源も必要なら、人手も不可欠。
施設の確保に手間取ることもあれば、法の壁に躓くこともある。
実際に、支援の場で、いろんな問題を目にすると、『やる気』と『善意』だけで物事は解決しないと痛感させられる。
2012年、「泣ける映画」として封切られ、多くの観客の胸を打った映画『チョコレートドーナツ』(原題 Any Day Now)も、現実と支援の限界について考えさせられる作品だ。
現場を知らない者が見れば、「裁判官は人情を理解しない、ひどいヤツ」「本人の望むままにすべき」という感想になるだろうが、支援する側から見れば、本人の希望だけで、どうこうできる問題ではないことが分かる。
何故なら、一つの例外を許せば、その他のケースについても融通しなければならないからだ。
たとえば、貧困家庭に同情して、窓口の係員が自分の財布から千円札を手渡し、「これで牛丼でも食べて下さい」と言えば、美談の人助けだ。
たとえ一時の空腹が満たされ、生きる気力が湧いたとしても、一人の職員がそういう事をしだすと、あの人にも、この人にも、食事代を手渡さなければならなくなる。
「Aさんは良くて、なぜ私はダメなんだ」という不満が必ず出てくるからだ。
どれほど気の毒でも、「駄目なものはダメ」「出来ないことは、出来ない」
確固たる線引きがあるから、万人に、平等に、支援が行き渡るのであって、例外的な処遇はかえって不満を増長し、現場を混乱させるものだ。
ゆえに、本作の裁判官も、憎らしいほど合理的だし、最後まで情に流されることなく、法に則って裁量を下す。
実の母が「一緒に暮らしたい」と言えば、たとえ薬物依存の虐待親でも、引き留めることは出来ないし、ゲイカップルが少年をどれほど愛そうと、法的には何の効力もない。
誰をも幸せにしない法とは一体、何なのか。
少年が不幸になっても、法は愛より優先すべきものなのか。
恐らく誰にも答えることはできない。
何故なら、法を無視することは、社会に背くことであり、社会に背く行為は、支援とは言えないからである。
(喩えるなら、Aさんが可哀相と、勝手に市の予算から見舞金を引き出して、無償でプレゼントするようなもの)
じゃあ、どうしたらいいの?
本作では、最悪の結末を迎えたが、もう少し時間があれば、他の救済策を考えることもできたと思う。
たとえば、毎日少年と面会するとか、通学支援をするとか。
あの手この手で救済策を考えるのが福祉の専門家であり、福祉こそ創造性が必要と言われる所以である。
裁判において、ポールが激昂する、
法は個人の裁量で動かせないが、法の隙間に手を差し伸べることはできる。
今の世の中に必要なのは、人に対する想像力と、「無理」を一歩越える勇気ではないだろうか。
なぜ少年はチョコレートドーナツが好きなのか
初めて、ルディ、ポール、マルコの三人でディナーを楽しんだ時、マルコはポールが調理したラザニアではなく、ドーナツを欲しがる。
ルディは、「ダメよ、ドーナツなんて」と咎めるが、ポールは(激甘の父親みたいに)「たまに一つ食べるくらいなら平気だよ」と、マルコにドーナツをすすめる。
美味しそうにドーナツを頬張るマルコを見て、日頃の食生活が頭に浮かんだ視聴者も多いのではないだろうか。
薬物依存で、貧困のシングルマザーでもあるマリアンヌは、料理するのも面倒で、マルコがお腹が空いたと言えば、そのへんのスーパーで買ってきた袋入りドーナツをぽんと与えていたのだろう。
実際、ルディとポールがマルコを病院に連れて行くと、健康面について、まったく配慮がされてない事実が明らかになる。
いわば育児放棄だ。
しかし、母のマリアンヌにも言い分はある。
どういう経緯で薬物依存のシングルマザーに陥ったのか、作中では何も語られないが、「ダウン症の子供が生まれた」→「夫の無理解から夫婦仲が険悪になり、離婚」→「母親が一人、取り残され、生活も手立てもなく、精神的苦痛を紛らわせるためにドラッグに手を出すようになる」→「ますます気力を失い、育児放棄」といった様子が目に浮かぶ。
問題は、そこに至るまで、何の社会的支援も得られなかった、ということだ。
マリアンヌが医療福祉に全く無知・無関心だった理由もあるかもしれないが、精神的苦痛から、支援にも背を向け、だんだん社会的に孤立していった背景もあると思う。
いずれにせよ、ダウン症の子供を抱えた貧しいシングルマザーに支援の手が差し伸べられることはなく、ここにも社会の無関心や法の狭間を垣間見ることができる。
いわば、「チョコレートドーナツ」は、社会全体の育児放棄の象徴だ。
マリアンヌを『駄目な母親』と断罪するのは簡単だが、駄目な母親の側には「子を捨てた父親」が存在するわけだから、彼女一人を責めるわけにはいかない。
留置所を訪ねたルディが「マルコの世話をしたい」と申し出た時、マリアンヌが尋ねる。「お金はいるの? タダで見てくれるの?」
マリアンヌも、今まで無償で誰かに助けてもらったことがないのだろう。
食生活を見れば、その人の暮らしや価値観の全てが分かる。
本作のチョコレートドーナツはちっとも甘くなく、大人社会の身勝手と無責任の現れでもある。
フランス・ジョリ『Come to Me』について
日本語訳と動画
本作で効果的に使われている『Come to Me』は、1963年生まれのカナダの女性歌手、フランス・ジョリのヒット曲だ。
Wikiによると、1979年9月22日、ビルボード誌のHot Dance Club Playに3週間にわたってランク入りし、最高15位まで達成した。
作中、ルディ(アラン・カミング)が歌うバージョンは二種類あり、一つ目は、ルディがドラッグクイーンに扮してショーパブのステージで歌うディスコ・ナンバー。
もう一つは、ルディ、ポール、マルコの三人で幸せに暮らす様子を、昔の8ミリ映画風に演出する中で、BGMとして流れるバラード調のアレンジだ。
Come to Meの日本語訳は次の通り。(字幕版より引用)
私のところへ来て
世界が冷たく 空っぽに思えたら私のところへ来て
抱きしめて欲しい時私のところへ来て
温かい腕で守ってあげる私のところへ来て
嵐を遮る楯になる嘘なんかじゃない
なぜ分かってくれないの愛してる 愛してる
あなたが必要
あなたが欲しい愛してる 愛してる
あなたが必要
あなたが欲しいCome to me
When you’re all alone and feelin’ down
Come to me
When there’s nobody else around
Come to me
I’m still waiting open-armed for you
Come to me
‘Cause I will comfort you
When you’ve no one to turn to
I will be here just for you…I’m a lonely man
Living in a world of dreams
I’ve got everything
But the one thing that I really need…