アレクシス・ワイセンベルクについて
早熟の天才、アレクシス・ワイセンベルク(Alexis Weissenberg)はブルガリアのソフィア出身の技巧派ピアニストで知られる。
詳しい経歴はWikiなどに掲載されているので、ここでは、CDのライナーノーツに記載されたバイオグラフィーを中心に紹介したい。Wikiはこちら → https://w.wiki/56WB
いろいろ聞いてみたい方は、Spotifyで公開されているワイセンベルク大全集『Icon』をお勧めする。
ディスク10枚分に、ほぼ全ての音源が収録されている。
『ドビュッシー名曲集』より
月光のように美しく
ワイセンベルクとの出会いは、『ドビュッシー名曲集』がきっかけだ。
最初からこだわりがあって購入したわけではない。
たまたま選曲が私の好みだったこと(「ベルがマスク組曲」「子供の領分」など)、CDケースの帯に書かれた『現代的』という謳い文句に心惹かれたからだ。
昭和の頃は、「ドビュッシーを聴くなら、ギーゼキング」「いやいや、やっぱミケランジェリでしょ」みたいな定番があり、私もそれに倣おうとしたが、いまいち私のイメージに合わず、『現代的』と評価の高いワイセンベルクを試してみた次第。
聴いて、陶然となった。
光を音にすれば、こんな演奏になる、と。
朝露みたいにピュアで、月の光のように流麗としたドビュッシー。
これこそ私の探し求めた『Clair de Lune』と確信し、目を閉じては、水面にたゆとう月の光を瞼に浮かべたものである。
このアルバムは、Spotifyでも視聴できます。
YouTubeの公式プレイリストはこちら。
Alexis Weissenberg plays Debussy
ワイセンベルクのバイオグラフィー(1)
当アルバムのライナーノーツには、下記のように紹介されている。
1927年7月26日、ブルガリアのソフィアに生まれた。幼少のころから母親からピアノを習い、第二次大戦中はイスラエルに行き、その後アメリカに渡っている。
アメリカではジュリアード音楽学校でオルガ・サマロフに師事し、1948年2月、ジョージ・セル指揮ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会でデビューしている。
しかし1956年から約10年間活動を中止して自己研鑽を重ね、その間にパリに移り住んでいる。そして1966年11月にパリで再デビューしてから、国際的なピアニストとして高い名声を博している。ワイセンベルクのドビュッシーは、20年ほど前に今回とほとんど同じ曲目のレコードがあったが、比較的珍しいといえる。元来音の澄んだ美しさをもっている人だから(そうそう)、ドビュッシーの演奏にはそれが大切で、強弱の表現がとても細かいのも音楽を立体的に聴かせるのによい効果を発揮している。
ことに強弱の表現が音の遠近感となって聞こえてくるのがおもしろいし(音の遠近感ですって!)、全体に高度な技巧に支えられたすっきりとした表現が、このドビュッシーの演奏の特色といえよう。
CD『ドビュッシー:ピアノ作品集』 ライナーノーツより 渡邊學而
組み合わされたアルペジオ
わけても心惹かれたのが、『組み合わされたアルペジオ(Douze Études pour piano)』。
『12の練習曲』の第11曲目に相当するこの曲は、技巧派ワイセンベルクの本領発揮ともいえる名演である。
指の隙間から光の粒子がこぼれ落ちるような透明感で、この世のものとは思えぬ美しさだ。
このクリスタルのような響きが、「ワイセンベルクさま」とお呼びしたくなる所以である。
ドビュッシーと言えば、多くの場合、『月の光』が入り口で、私も例に漏れず、子供の頃から慣れ親しんできたが(ちなみに当サイトの最初のホームページ名は『Clair de Lune』)、本作の叙情性は『月の光』もはるかに超える。
夢見るようなアルペジオに幽玄の境地を感じるはずだ。
YouTubeの公式動画 https://youtu.be/wVrFC3b5o9A
組み合わされたアルペジオ(≪練習曲集≫第2巻から 第11曲)
1915年の作曲で、ドビュッシーが当時デュラン社からの依頼で行っていた『ショパン全集』の校訂の仕事と無関係ではない。各6曲ずつの2巻、計12曲から成るが、その第11曲<組み合わされたアルペジオ>は、ドビュッシーのもっとも得意とするアルペジオの手法がさまざまな形で繊細に組み合わされ、この≪練習曲集≫の中でもとくに美しい詩情をもっていることで知られる。
CD『ドビュッシー:ピアノ作品集』 ライナーノーツより 渡邊學而
ベルガマスク組曲
ドビュッシーのピアノ曲について語るなら、『月の光』は避けて通れない。
今やクラシックから、癒やし系女子御用達ヒーリングミュージックと化した名曲中の名曲であり、「我こそは!」と言わんばかりの名演も多いが、ワイセンベルクの演奏は、さながら夜の溜め息。
意外とアップテンポで弾く人が多い中、ワイセンベルクの『月の光』は、どこかアンニュイで、夜の恋人たちの囁きを思わせる。
それでいて、中間部は、光の波が押し寄せるようにパッショネイトで、時に圧倒されるが、次第にその波も引いて、再び静寂が戻ってくる。
だが、宵はとうに過ぎて、もうしばらくで夜が明けそうな淋しさを感じさせる。
そして、最後は月夜を名残り惜しむようにエンディング。
ほんの数分の間に、一夜のドラマを紡ぎ出せるピアニストが、どれほどいるだろう。
多くが『光』を表現しようとするのに対し、ワイセンベルクは、夜を想う人の心を描いているような印象だ。
最後はほっこり終るのも、心が一夜を旅するからで、ワイセンベルクにかかれば、『月の光』も短編映画のようである。
ベルガマスク組曲について
ドビュッシーのピアノ曲の中でもとくに人気のある作品のひとつである。初期のころの1890年に作曲されたとされているが、1905年に出版されるまでに15年の月日があり、その間に当然いろいろな改訂が行われたと考えられる。実際この曲を出版したフロモンに宛てたドビュッシーの手紙の中に、この組曲の最初の形のものを手渡すのは馬鹿げているし、無意味なことである、ということが記されている。そうしたことから、この組曲にはいまだにマスネ、フォーレ、サン=サーンスといったフランスの先輩たちの影響を残しながらも、和声や音の響きの点では彼独自の印象主義の彷徨を明確に示しており、その意味で過渡的な作品といえる。
CD『ドビュッシー:ピアノ作品集』 ライナーノーツより 渡邊學而
哀愁のラフマニノフ 『ピアノソナタ 第二番』
『哀愁』という言葉は、ラフマニノフから教わった。
その極美は『ピアノソナタ 第2番 第二楽章』だと想う。
残念ながら、このディスクは日本では絶版となっており、中古しか手に入らない状況だが、YouTubeでは視聴することができる。
しかし、カスタマーレビューは読み応えがある。
YouTubeで視聴
何故か、この音源はSpotifyでも見当たらず、有志による動画だけが頼りである。
YouTubeのコメントでも、too fastだの、Hammmerだの、the speed junkiesだの、辛口コメントが並んでおり、アシュケナージやホロヴィッツの演奏に親しんでいる人には粗雑に聞こえるかもしれないが、ワイセンベルクの華麗なピアニズムと美学が感じられる好演であり、特に第二楽章の美しさは白眉のものである。
第一楽章
のっけからビンビンに飛ばしてます。
苦手な人は、導入部を聞いただけで拒否反応を起こすはず。気持ちは分かるが、もうちょっと待って欲しい。
どうしてもムリという人は、第二楽章に飛んで下さい(´。`)
第二楽章
私の中で、ラフマニノフのイメージを大きく変えたのが、この演奏。
たっぷりと叙情的に弾く人が多い中、ワイセンベルクのLentoは一つ一つの音がきらきら輝くようで、特に高音の美しさは白眉のもの。
中間部(約2分)の、ためて、吐いて、重ねて、ためて、の、緩急もよい。
約3分20秒あたりの、音の洪水みたいな弾き方も、ワイセンベルクらしくて圧巻だ。
ピアノがグヮングヮンと鳴り響くのもご愛敬。
きっと、彼の中では、この箇所が一番盛り上がるんだろう。
だが最後は丁寧で、まとめ方も上手い。
他の演奏に比べれば、都会的というか、現代的というか、「こういうラフマニノフがあってもいい」と思わないか?
「こんなのはラフマニノフじゃない」という玄人の意見も分かる。
だが、ベタベタと情に訴えるだけがラフマニノフではないと思うのだ。
冒頭を聴けば分かるが、ワイセンベルクの『哀愁』は、誰もがイメージする演歌的な音色ではなく、パリの秋空みたいに洒落ていて、どこかアンニュイだ。
内省的な演奏が多い中、ワイセンベルクは、ラフマニノフをドビュッシーの『ベルガマスク組曲』のように、音と戯れながら弾く。
しかし、ちゃんと音の会話になっており、決して破天荒ではない。
曲全体は哀しいが、最後に少し希望があて、音の向こうから光が差してくる。
例えるなら、全力で泣いていた女の子が、ふと顔を上げて、涙を拭うような明るさだ。
第二楽章に関しては、とにかく曲の締め方が上手い。
第三楽章
第二楽章の主題を繰り返しながら、突然、グワ~ンと、例のワイセンベルク節が入るので、苦手な人は顔をしかめるかもしれない。
最後も爆発してるし(^_^;
チャンネルを変えて、アシュケナージの演奏を聴けば、「ああ、これぞラフマニノフ」と思うかもしれない。
しかし、正しいだけが音楽だろうか。
そもそも、音楽における“正しさ”とは何なのか?
その点、ビンビンに弾き飛ばすワイセンベルクにも美学はある。
世の評価がどうあれ、真っ直ぐに己の道を突き進む、唯我独尊の美学だ。
なんちゃってアシュケナージや、なんちゃってホロヴィッツは大勢いるが、「なんちゃってワイセンベルク」は聞いたことが亡い。
それだけ特異で、音楽性が際立っている証しでもある(好き嫌いは別として)。
音楽を奏でるからには、「聴衆を感動させる」が第一義だろうが、自分の為に奏でる音楽があってもいいだろう。
その結果、誰かが振り向いてくれたなら、それこそ本物のピアニズムではないだろうか。
ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品36 について
当方が所有しているCDのライナーノーツより。
『ピアノ・ソナタ 第2番』は、第1番から6年後の1913年に作曲されている。ラフマニノフは、しだいにピアニストや指揮者としての活動が忙しくなり、創作に専念する時間がなくなってきたために、1912年暮れから思い切って家族とともにスイスからイタリアへ旅行に出かけた。そしてローマでは、ピアッツァ・ディ・スパーニャにある住居を借りて創作に打ち込んだ。この住まいは、以前長らくモデスト・チャイコフスキーが所有していたもので、そのために作曲家チャイコフスキーもしばしば滞在していたところである。
このローマで彼は2曲の大作を作曲し始めた。ひとつは合唱交響曲≪鐘≫であり、もうひとつがこのソナタである。しかしローマ滞在も約2ヶ月経ったころ、ふたりの娘、イリナとタチャーナがチフスにかかったために、彼らはローマを引き払ってベルリンで治療することになった。その後ロシアに帰り、これらの作品の創作を続けて、1913年の夏には≪鐘≫を完成し、そのあと秋になってからソナタ第2番も仕上げている。そしてピアノ曲としては、練習曲≪音の絵≫第1集作品33(1911)と同第2集作品39(1916-17)の間の時期にあたる。
初演は、この年の12月16日に作曲者自身の演奏によりモスクワで行われ、この曲はかなりの好評をもって迎えられた。この版は、翌1914年に出版されたが、ラフマニノフはそれから18年も経った1931年に、このソナタを大幅に改作している。そのころラフマニノフは、次のように言っている。
「私の以前の作品を見るにつけ、その中にはあまりにも無駄なものが多いように思います。このソナタも例に漏れず、同じような音楽の運びがたくさんあり、長すぎます。ショパンのソナタは、19分しか要しないのに、それですべてを語っています」
そこでラフマニノフは、全体を約5分の4に縮小した改訂版を作り、この年に出版している。ワイセンベルクが演奏しているのは、この改訂版の方である。これにより構成的には音楽が引き締まったが、その代わりにいくつかの魅力ある部分が落ちてしまったとして、ウラディミール・ホロヴィッツがさらに補訂したホロヴィッツ版というのもある。
CD『ラフマニノフ:ピアノソナタ 第1番&第2番』 ライナーノーツより 渡邊學而
ワイセンベルクのバイオグラフィー(2)
ラフマニノフのCDで紹介されている、ワイセンベルクのバイオグラフィー。
アレクシス・ワイセンベルクは、現代におけるヴィルトゥオーゾ・ピアニストの一人である。
超絶的な技巧の持ち主で、しかもピアノという楽器から非常にダイナミックな響きを作り出すが、その演奏が常に爽快に感じられるのは、その技巧の自然さと音楽の流れのよさによるものと思う。
とくに作品全体が華やかな技巧をもっている場合には、いっそうそうした特徴が彼の演奏によく表れるが、ここでのラフマニノフのソナタは、その典型的な演奏といえる。このラフマニノフでもっともすばらしい点は、作品のもつ音楽的な推進力を思い切って表現しているところにある。
じつはそれを行うためには、この難しい技巧を完全に制した餓えでの余裕がなければならない。
音楽が自動的に独り歩きしていくのに何の抵抗も与えぬだけの技巧のゆとりといってもよかろう。
ワイセンベルクの演奏には、まさにそれが備わっているから、聴いていて圧倒されると同時にラフマニノフの音楽の中に引き込まれるのであって、そこにワイセンベルクのヴィルトゥオーゾ性があるといえる。ワイセンベルクは、1929年にソフィアに生まれたブルガリア出身のピアニストだが、戦後は主に欧米で活動している。
10代ですでにアメリカでデビューし、しばらくアメリカで活動していたが、その後約10年間、自己研修の期間をもうけ、その間にパリに移っている。1966年から再び演奏活動を開始し、ヘルベルト・フォン・カラヤンに認められたこともあって、その後、一気に世界楽壇のスターダムにのし上がった。
バッハからストラヴィンスキーに至る広いレパートリーをもっている。
CD『ラフマニノフ:ピアノソナタ 第1番&第2番』 ライナーノーツより 渡邊學而
ワイセンベルクの変態技が炸裂したのが、こちらの映像。 1965年、ストックホルムで撮影された、ストラヴィンスキーの組曲『ペトルーシュカ』 最初にちょっとタバコをふかす仕草がいいですね。吸い過ぎはいかんよ。 この演奏を聴いても分かるように、これはもう「ストラヴィンスキー」ではなく、ワイセンベルクなのである。 玉手箱のように音が煌めき、夢でも見ているような世界観。 決して速さ自慢ではなく、自身のイメージを再現しようとしているのがよく分かる。 しかし、これだけ和音を連続で弾いて、一番高音のメロディだけが綺麗に聞こえてくるって、やはりプロは凄いです。(右手の小指だから、普通はそこまで力が入らない) ちなみに、演奏としては、こちらの方が一般的かもしれません。多分、CDからの転載だと思います。 YAMAHAであれ、Steinway & Sonsであれ、ピアノメーカーの規格は非常に厳しく、手描きの絵皿みたいに、「一台、一台、キーの重さも弦の張り方も異なる」ということは、まずない。 中には、自分専用のピアノを調達してもらう一流ピアニストも存在するが、それでも基本の規格は同じで、「Aさんのピアノの響板はエゾマツですけど、Bさんの響板は特殊な塗料を加えて、低音がよく響くようにカスタマイズしてます」ということも、まずない。 ということは、誰が退いても同じ音色に聞こえるはずだし、ポリーニが弾こうが、アシュケナージが弾こうが、どれも似たり寄ったりで大差ないはずだが、実際はそうではない。 同じようにYAMAHAのピアノを弾き、同じ譜面でラフマニノフのソナタを弾いても、同一の演奏は二つとしてなく、100人のピアニストがいれば、100通りのアレグロがあり、クレッシェンドがある。 その違いが分かるようになれば、そこに聞こえるのは、もはや「ラフマニノフのソナタ」ではなく、ピアニストそのものだ。 誰もが知っている「あのメロディ」に、生きた人間の息づかいを感じるようになる。 それは決して技術の差異ではなく、想像力と美意識の違いだ。 右から左に流れる環境音楽と異なり、たった四小節の間にも、ドビュッシーやラフマニノフの楽譜には、表現すべきことがたくさんある。 ピアノでありながら、ピアノを超えた「何か」に出会った時、それは『音楽』という枠組みを超えて、全人的な存在になるのだろう。 私にとって、アレクシス・ワイセンベルクは、そういう存在だ。 「どこが、どう」と問われたら、私も答えに窮するが、初めて耳にした時から、音の透明性に心惹かれずにいなかった。 しかし、クラシック通に言わせれば、ワイセンベルクが好き」というのは、なかなか恥ずかしいようだ。 トシちゃん、マッチ、ヨッちゃん、どれが好き? と問われた時に、「野村義男」と言う時、どこか劣等感を覚える気持ちに似ている(ネタが古くてすみません) もしかしたら、ならず者に恋をしたと告白するぐらい、リスキーで、孤独なことかもしれない。 もちろん、アレクシス・ワイセンベルクは、話題先行型のキワモノではないし、時代の移り変わりと共に忘れ去られる一発屋でもない。 クラシック界の大御所カラヤンにも認められ、名盤と称される録音も多数残しておられる、偉大なピアニストである。 「ワイセンベルクが好き」と広言したところで、何を恥じることもないだろう。 だが、それ以上に恥ずかしさが上回る、奇妙な存在だ。 「ポリーニが好き」「アルゲリッチが好き」と言えば、誰もが納得するのに、「ワイセンベルクが好き」と言えば、皆が一斉に振り返る感じ。 そういう怪しさが彼のピアノにはある。 ファンの私でさえ、「おいおい」と血の気が引くような乱暴な演奏もあって(特にライブ盤)、「一流」「巨匠」と呼ばれる、優等生的な演奏とは一線を画している。 にもかかわらず、ぶっちぎり礼賛してしまうのは、そこに己の美学が溢れ出ているからだろう。 彼のピアノは、一言で言えば『クリスタル』。 光で編み上げたレースのように繊細でありながら、深く斬り込むような鋭さがあり、そうかと思えば、驚くほど剛胆だったりする。 それでいて、浮世離れしたような透明感を感じさせ、甘美なパートでも澱むところがない。 たまに思い出した時だけ、俗人の前に姿を現す仙人みたいに素っ気なく、聴衆はおろか、自分の周りの人間さえ顧みないような孤高の人であるけれど、『ドビュッシー名曲集』のように、一音、一音、研ぎ澄まされたような音色を聴いていると、ワイセンベルクが……というよりは、我々の側が、惰性と偏見の中に生きているような気がするんだな。 ワイセンベルクは「これからクラシックを聴こう」という人にはお勧めできないが、印象派に興味のある人、絵画性や透明性に心惹かれる人は、ぜひ聴いて欲しいピアニストの一人である。 2011年 追記のコラム ワイセンベルクに対して、好き嫌いがはっきり分かれるのも、芸人だか、芸術家だかの境界が曖昧で、己のために弾いているような「俺様イズム」が鼻につくからではないだろうか。 王道に囚われず、大衆に媚を売ることもなく、ただひたすら己の道を驀進するような実直さは、他のクラシック界のアイドルにはないものだ。 巨匠と呼ばれる人の演奏に親しみ、「これぞクラシック」という自分なりの尺度を持った事情通には、ワイセンベルクの超然としたピアニズムは、耳の中に異物がごろりと転がり込んだみたいに、やかましく、自己主張しすぎて、決して相容れないと思う。 しかし、ひとたびその魅力に捉えられたら、俺様イズムを突き進むような演奏に不思議と心を動かされるはずだ。 本来、人間とは、このようなナルシズムに支えられるべきだと。 なぜにワイセンベルク? と問われら、答えは明快だ。 それは、彼のようなピアニストが他にないからだ。 優等生は、この世にごまんと存在する。 だが、ワイセンベルクは、この世に一人だけ。 この恋慕のような執心と磁力こそが、数あるプレイリストの中から、今日もまたワイセンベルクをセレクトしてしまう理由だと。 そして、私もまた、数あるクラシック・ファンの中の特異な一人と言えるだろう。 自分が弾きたいように弾いてくれるピアニストこそ、至上の存在と思う点で。 J・S・バッハから始まった大いなる歴史の中で、名演に出会う機会は星の数ほどあるが、自分が本当に好きな演奏と巡り会う機会は流星ほど少ない。 軌道を外れた流星が頭の上に落ちてくる人こそ、幸運ではないだろうか。 のっけから、昼メロかよ! と突っ込みを入れたくなるような、激甘ショパンである。 ポリーニを音楽アカデミーとするなら、ワイセンベルクのショパンはさながら宝塚歌劇である。 びんびんに弾き飛ばすラフマニノフからは想像つかない、チャーミングなショパンである。 セザール・フランクの『前奏曲、フーガと変奏』の「変奏」。 ドビュッシーのようでもあり、ラヴェルのようでもある、名演。 他にも名盤とされるものはいっぱいあるのに、何でまたワイセンベルクを買っちゃったんだろうと、家に帰ってから考え込んだ一枚 (;´Д`) ワイセンベルクのラフマニノフといえば、カラヤンと共演した『ピアノ協奏曲第2番』が歴史的名盤と言われているそうだが、万人向けの演奏とは言い難い。 それより、『ピアノ協奏曲第3番』がおすすめです。 日本ではバーンスタイン盤が有名ですが、欧州Spotifyでは、ジョルジュ・プレートル指揮の録音がリリースされています。 第一楽章の、最初のソロは、『さすがワイセンベルク様』と溜め息が出るほどの「オレ様」ぶりですが、二つ目のソロは、『さすがワイセンベルクさま』とお呼びしたくなるような抒情性。 第二楽章のクライマックスもゴージャスで、「哀愁のラフマニノフ」というよりは、「シャンデリア」という感じ。 とにかく、きらきらして、自分なりにラフマニノフのイメージをもっている人には、かなり耳障りかも。 個人的にヒットしたのは、リストの『愛の夢』。 ワイセンベルクさまのショパンとか、ちょっと怖くて聴けないんですけど、意外によかったのが下記のディスク。 ピアノもいいけど、オーケストラが綺麗。 三枚組のCDで、ピアノソナタ『第二番&第三番』『幻想ポロネーズ』なども収録。 可憐で流暢なワイセンベルクさまのショパンを堪能できます。 録音も非常に上質です。拾いものですね。(途中でハラハラするけど、それもご愛敬) 初回公開日 2011年3月10日
この映像を見たカラヤンが、「これを撮影したカメラマンとピアニストを連れてこい」と言ったのが、最初の出会いだとか。(他者のブログで読んだ)
https://youtu.be/xJDLwCMJ39Yピアニストの個性を教えてくれた、ワイセンベルクの音色
音楽が全人的な存在になる瞬間
そして、恋におちる
魅惑のクリスタル・サウンド
己の美学のままに : 美しき俺様イズム
ワイセンベルクのおすすめアルバム(Spotify)
ショパンの『ノクターン、マズルカ、ワルツ』
セザール・フランクの『前奏曲、フーガと変奏』
まるで映画音楽のように繊細でスウィートなメロディに、ワイセンベルクさまが己を滅して(?)ロマンティックに弾きあげる。
いやいや、これがほんとのワイセンベルクなのですよ。
ラフマニノフは指がすべったか??パンチョ・ヴラディゲロフの『Improvisation』
映像的な美しさはワイセンベルクさまの真骨頂。光が跳ねるような、透明感あふれる演奏です。ラフマニノフ 『前奏曲全集』
天下のラフマニノフもワイセンベルクの手にかかると、なぜか感情移入できなくなるから、あら不・思・議。
アシュケナージのようなお涙頂戴のラフマニノフもいいけれど、一線引いたようなクールなラフマニノフもまた一興かと。
玄人向きです。ラフマニノフ 『ピアノ協奏曲第三番』
めちゃくちゃクセがあります。
プラス、指が回りまくる超絶技巧で、聴き応えがあります。(そこまで回さなくていいのに、ついつい回しちゃうんでしょうね。というより回っちゃう)
(参考→ 芸術とは己の極限を目指すこと 映画『Shine』とラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番リスト『愛の夢』
ワイセンベルクさまのリストって、クリスタルのようにシャープかと思っていたら、この演奏は激甘。
夜のひと時に、ぜひ。ショパン 『ピアノ協奏曲 第1番』
ポーランド出身の指揮者、スタニスワフ・スクロヴァチェフスキのお導きが良かったから?
ワイセンベルク様にしては、抑えた感じの演奏で、一音一音、丁寧に弾いてます。(中間部でさりげに派手になるけど)
ソロが優しい感じに仕上がっており、隠れた一面を垣間見るよう。